【書評】 『現代において信仰はいかに可能か——ヘーゲル宗教哲学の提示するもの』 鈴村智久

「不幸な意識」を乗り越えるキリストの現存をともに祝う希望の呼びかけ
一読して、人生の黎明をことほぐ気配が感じられました。「不幸な意識」を乗り越えるキリストの現存をともに祝う希望の呼びかけが、鈴村さんによって読者の心に確かに響くからでしょう。その気配は、2000年前にキリストがもたらした、相手に対する徹底的でこまやかな配慮にもとづきます。まさにバシレイア(真の王としての神による統治)。つまり「神による愛情に満ちた真の支えと配慮」(支配)が、今ここにおいて始まりました。
そのバシレイアの宣言をナザレのイエス・キリストが現存して声高らかに公にしました。神話ではなく、歴史的な出来事として生身の救いが実現します。ヘーゲルは救いの歴史を渇望しました。彼にとっての「世界精神」とはナポレオン・ボナパルトなどの人間ではなく、むしろ実は真の神であり真の人間でもある受肉のキリストだったのでしょう。
鈴村さんは史的イエスの研究(『ナザレのイエス 思想の起源』2022年)とバシレイアの宣言の内省的な本音の受け留め(『バシレイア 思弁的神秘主義の理論と実践』2024年)をデザインエッグ社スタッフの支えによって2冊の作品に結晶化させてから止揚すべく新作を私たちに授けます。この稀有な贈りものにはいくら感謝してもしきれないほどに価値があります。まるで財宝を発見したかのように、評者も狂喜乱舞するほどです。
イエス・キリストが確かに一緒にいて神の愛情の寛大な呼びかけを証しする、という救いの実感を静かに受け留めたヘーゲルの思索の際の奇跡的な実感を鈴村さんが見事に解き明かしたからです。キリストの現存の厳かな現実を真正面から受け留めたヘーゲルの明敏な意識は、鈴村さんの透徹した心のまなざしをとおして私たちにも伝えられます。
ヘーゲルの『精神現象学』ほどに、主観と客観とを一体化させて直截的に描いた記録はなかなか存在しません。しかし稀有な宝に気づく者は至極わずかです。ところが鈴村さんがヘーゲルのまごころを日本語で的確に説明しました。奇特なことです。ヘーゲルの思索は常に自己の経験と歴史的な社会の状況とを結びつけるとともに、この現世をつつむ超越者の慈悲のはからいの奥行きにも注目するものでした。その意味でアリストテレスによる観想の仕儀を受け継ぐ総合的な哲学が構築されたわけです。現世の仕組みばかりではなく、超越的な真実の深層もまたヘーゲルの哲学から観えてきます。
ヘーゲルを評価する際に信仰論を本筋として直截的に素直に直進したのが鈴村さんの鋭さでもあり、愚直さでもあり、独創性でもあるわけです。相手の太刀筋を瞬時に見定めて見事に刃を受け留めました。真剣ですので、一歩間違うと死にます。しかし両者は活き活きと元気に躍動しています。ヘーゲルも鈴村さんも死なずに済みました。真に強い者は自分も死なず、相手も死なせません。「活人剣」(相手を活かす剣)の使い手だからです。
鈴村さんは自分自身といういのちの本体そのもので真っ向勝負を挑む現代の侍のごとき潔さによって、難解極まりないヘーゲルという思索の巨人と対等に渡り合います。ちょうどゴリアテをいともたやすく打ち倒した少年ダビデのように機転を効かせて。学識という武具を身に着けないと相手と対峙できない凡百の学者を凌ぐ智慧の輝きのまばゆさ。
(評者・阿部仲麻呂=日本カトリック神学院教授、日本宣教学会常任理事)
【2,200 円(本体2,000円+税)】
【ヨベル】9784911054581
















