翻弄される被災地 続く模索(1) 残る子どもたちを守りたい 2013年3月23日
未曾有の災害から2年。犠牲者を偲び、「あの日」を忘れまいとする追悼行事が各地で行われる中、宗教者による支援活動を振り返る取り組みも始まっている。しかし、いまだ震災直後と変わらぬ苦境に立たされ、翻弄され続ける被災者たちがいる。現地を訪ねた。
福島第1原子力発電所から西へ約60キロ。福島県郡山市内のセントポール幼稚園は、日本聖公会郡山聖ペテロ聖パウロ教会の附属として、1956年に誕生した伝統ある幼稚園。教会と道路を隔てて建てられた園舎は、5年前に建て替えたばかりで真新しい。しかし、その園庭に子どもの姿はなく、備えつけの遊具は使われた形跡がほとんどない。
震災直後、内陸に位置する郡山市には、原発に近い沿岸部から多くの被災者が避難してきた。距離が離れれば離れるほど安全だと考えられていたからである。しかし、その予測とは裏腹に、同市の空間放射線量は事故直後から高い数値を示し続けていたことが、次第に判明する。セントポール幼稚園は、市内でも比較的線量の高い麗山地区にあった。文部科学省などが測定を始めた2011年4月当初、同園の空間線量は屋内でも毎時0.6マイクロシーベルト。
同年5月の連休までに3分の1の児童が一時避難により休園。そのまま避難先に転居して、退園した児童も少なくない。月末に延期した卒園式も、27人いた卒園児のうち10人は欠席した。
「危険」か「安全」か――専門家間でも意見が分かれる中、園がとった対応は、ひらすら測定した結果を詳細に通知し、判断はすべて保護者にゆだねること。そして、線量を下げるためにできるあらゆる対策を講じた。園庭の土を入れ替え、側溝の泥を除去し、線量の高い建物周辺はコンクリートで固め、屋内の床拭きと高圧洗浄機による屋根や外壁の除染は、ボランティアの支援をたびたび受けながら毎日のように繰り返した。
努力の甲斐もあり、園庭の線量は微量に下がり続け、今年2月には0.25までになった。震災前とまではいかないが、まだ公的な除染も手のつかない近隣の一般家庭よりも低い値である。
理事長の三宅哲さんは、園児の出入りも激しく、落ち着いて保育を行う余裕もないほど対応に苦労していた、と当時を振り返る。「親も必死でした。私たちは、残っている子どもたちは何とかして守りたいという思いでした。献身的な職員の働きを見て、園を信頼して預けてくださるご家庭も多く、励まされました」
あれから2年。「今の線量なら園庭で遊んでも問題ない」という専門家もおり、市内では、時間制限を設けて園庭で遊ばせる園、保護者の意見によって屋外で遊ぶ子と屋内で遊ぶ子に分けて対応する園も出てきた。
セントポール幼稚園は、職員たちの判断により、まだ屋外では遊ばせていない。その代わり、聖公会の被災者支援活動「いっしょに歩こう!プロジェクト」などの補助も受け、安全性の確保された施設に車で移動し、みんなで伸び伸び遊ぶというプログラムを始めた。「プールの日」「からだあそびの日」「お外で遊び隊」などの名目で、今年2月末までに18回の計画を実施した。
他にも、園児の飲み水はミネラルウォーターを使用し、各教室にセットしたボトルからマイカップで飲めるよう対処している。これも日本YMCA同盟や、立教小学校による支援を受けて実現したもの。三宅さんは言う。「普段から教会とのつながりは深かったのですが、震災を機に、より広く、目に見える形で聖公会のネットワークやキリスト教関係団体からの支援をいただき、感謝しています」
例年25~30人近い入園児も、昨年春は10人と半減したが、来年度の入園希望数はやや回復。被災から半年分の減収についてはすでに補償されたが、その他の除染費用を含む賠償については、県内の幼稚園協会と共に、東京電力への請求に向けて協議中だという。