【映画】 『希望のかなた』 主演シェルワン・ハジさんインタビュー〝共にリスペクトさえあれば〟

 フィンランドの名匠アキ・カウリスマキ監督による新作映画『希望のかなた』が公開される。日本公開にあわせて来日した主演のクルド人俳優シェルワン・ハジさんに話しを聞いた。本作は内戦のシリアを逃れた主人公カーリドをめぐる物語だが、ハジさん自身がシリア東部の出身であり、北欧へ移民した経験から、シリア情勢や演技をめぐる文化ギャップにまで話題は多岐に及んだ。

■妻はクリスチャン 娘も正教会で受洗

――ご自身の生い立ちとご出身の町デリク(Dêrik)について教えてください。日本のメディアでハジさんは「シリア人俳優」と紹介されるケースが多いようですが、正確には「クルド人」という認識で正しいでしょうか?

 はい。わたしはクルド人の家庭に生まれ育ちました。デリクはシリア北東端にある小さな町です。町の名デリクは、クルド語で「小さな教会」を意味しています。近隣の町の多くがそうであるように、デリクではさまざまな民族・宗教の人々がモザイク状に入り混じって暮らしています。英語ではよくマイノリティ/マジョリティという言い方をしますが、故郷では特定の集団をそのように呼ぶことが一般的ではありませんでした。アルメニア人であれアッシリア人であれ、またムスリムであれクリスチャンやユダヤ教徒であれ、古来よりメソポタミアに属すこの地域では時と場が少し変われば少数派にも多数派にもなってきましたからね。

 わたし自身、幼いころから教会へ行くことはよくあったし、家族にはムスリムもいます。ひと口にクルド人といってもいろいろだし、町によって状況も異なりますが、概して言えば他集団に対しては寛容な多様性のあるコミュニティで育ちました。今、わたし個人は特定の信仰を深めることはしていませんが、他者の信仰は尊重しています。妻はクリスチャンで、娘も正教会で洗礼を受けています。

――移民以前、ハジさんはダマスカスで学生時代を過ごされていますが、シリアの友人や親戚との連絡は取れているのでしょうか。日本では、シリアといえば内戦による危険性のイメージばかりが支配していますが。

 連絡は取っています。もちろん戦闘地域は危険この上ないでしょうが、ダマスカスにしても故郷の地域にしても、人々は普通に暮らしていますし連絡も取れますよ。かつて一緒の時間を長く過ごした人たちは、宗教や習俗の異同にかかわらずこれからも大切にしていきたいです。

■誰でも難民になる可能性はある

――『希望のかなた』の主人公カーリドはシリア難民の役柄ですが、移民として生活されてきたハジさんにとって、難民を演じることへの難しさはありましたか? また心がけたことがあればお聞かせください。

 どのような役柄も難しいものです。モナコの王子の役であってもシリア難民の役であっても、同じように難しい。プロフェッショナルな役者の仕事として、そこに違いはないですね。とはいえ、今世界で難民として何百万もの人々が日々味わっている苦しみを代弁しなければならない責任は大きいと感じました。そこで、映画を観る難民の人たちも満足するようなものにしなければと心がけました。

 誰でも難民になる可能性はあるし、それは恥ずべきことではありません。預言者のように、社会的に重要な働きを為した人も難民にはいました。脚本など与えられた情報に基いて、監督の意向も考慮に入れながら役柄をつくり上げる。何を信じ何色が好きで、何が好物かなどディティールを一つひとつ拾っていく。あえてリサーチはする必要はありませんでした。親戚筋や友人知人の範囲に、故郷を脱出せざるを得なかった人々が大勢いますからね。

 それから、なるべく特定の宗教や地理を想起させるような役柄にはしたくありませんでした。難民には無宗教者もいれば高等教育を受けた人もいる。あまり偏りを持たせるとアンフェアになりかねないと考えたからです。妹役もスカーフをかぶったり、かぶらなかったりしていますね。カーリドにしても、映画の中でビールも飲めば音楽も楽しんでいます。ごく普通の人間であることを大事にしました。

――実際に出演してみて、アキ・カウリスマキ監督との仕事はどのようなものでしたか。

 演技の勉強を始めたころから作品を観ていた偉大な監督の一人です。頑固で気難しいイメージもありますが、それは彼がとても繊細でシャイな人だからでしょう。その一方で、この困難な時代にとても勇敢な作品づくりに挑んでいる。作品にそなわる反骨精神と本人の人柄とは、そのような仕方で関係することもあるのだと学びました。とても尊敬できる監督です。 

■同じ環境に留まっていたら得られなかったもの

――欧州とシリアとでは、予想もしなかったような深刻な文化ギャップに、さまざまな場面で遭遇されたのではないでしょうか。

 確かに簡単なことではありませんでした。わたしの場合は、まず言葉を覚えることから始めました。何かをするなら、まず言葉への投資からだと考えたのですね。そしてはじめの5年間は、役者としての仕事はできませんでした。しかし結果として、ようやくビザをもらえた当日に大きなプロダクションから仕事をもらえました。困難は多かったのですが、同じ環境に留まっていたら得られなかったこともとても多い。ですから移住について、後悔はまったくしていません。

――その後ヨーロッパに移られて、演技の仕事に大きな変化はありましたか。

 シリアとヨーロッパとでは仕事の面でもいろいろなことが大きく異なりました。業界をよく理解し、知識を得ようと努めました。そこにはユニバーサルな感覚にも通じる、意識的な選択がありました。前の場所ではすべてが準備されていたのに、それらを捨ててきた新しい土地ではコネクションもなく文化も違う。でも、何かを失うことを怖がる必要はなかったですね。

■人間であろうとすることを諦めてはいけない

――シドニー映画祭のインタビューで、「人間性を保ち続けることが大切」と語っています。一方で、映画を含めた芸術表現は全体として、〈目前の戦争に対してアートは無力だ〉とか、〈飢えた子どもの前で芸術に何ができるか〉といった批判にも晒されがちです。

 今日この世界で、ただ人間であるということはとても難しくなりつつあります。人間としての価値観を維持することは、実はとても努力を擁することなのです。わたしは別にロマンティックになりたいのでもなく、夢見がちでいたいのでもない。人間としてあるということは、人間として地球上に生きているということのリアリティを理解しているということです。

 もちろん芸術は戦争を解決できないし、飢えた子どもを救えもしない。しかし、世界に変化をもたらすことはできるのです。それを諦めてはいけない。彼らの苦しみ哀しみを解決するためには、何かを為さなければならない。人が動かされるためには、無理矢理にではなく、心の深い部分から説得される必要があります。それはとても時間のかかることだし、簡単なプロセスではありません。しかし小さな行動一つで物事は変わり得る。その点を過小評価をする必要はまったくない。

 たとえばアキ・カウリスマキはドン・キホーテのような人で、彼と仕事ができたことをとても光栄に思います。あらゆる架け橋を壊そうとしている人々、さまざまな芽吹きを潰そうとする人々、違いを強調しコミュニティの分断を試みる人々がいます。しかし、そうした流れが生む巨大な力に対抗する人を見ると、わたしは奮い立つのです。

 十の異なる民族集団が仲違いしていく過程をかつて目にしましたが、リスペクトさえあれば共に暮らし、何かをつくり上げていくことは可能なのです。困難な状況下でもなお人間であろうとすること、この意味で『希望のかなた』に描かれるキャラクターたちの振る舞いは、カウリスマキ監督からの一つの提案でもあります。殴り合いから始まる関係であっても、人間としての共通項の方を見る。リアリティが凝縮されエネルギーが満ちている状態こそ、良い芸術作品の証なのです。

(渋谷、円山町にて 2017.9.30 聞き手・藤本 徹、撮影・鈴木ヨシアキ)

【映画評】 『希望のかなた』 〝シリア難民〞の向こう側 2017年12月1日

ⒸSPUTNIK OY, 2017

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