【映画評】 『希望のかなた』 〝シリア難民〞の向こう側 2017年12月1日

 フィンランドの巨匠アキ・カウリスマキの新作『希望のかなた』が公開される。主人公は、内戦のシリアから北欧へ逃れた難民の男カーリドだ。彼にとって文字通り「希望の向こう側」にある欧州は、しかしそこで生まれ暮らしを営む人々にとっては「日々の現実」でしかない。この希望と現実とのギャップが関わる人々に葛藤や衝突を呼び、和解や決裂へと至る軌跡がさまざまな物語を描き出す。シリアからの難民流出が深刻化して数年が経つ、かの内戦に端を発するこうした物語はすでに世にあふれている。

 むろん物語はどれも一筋縄ではいかない。そこには、奇妙な論理をこね回し「アレッポでは戦闘行為が行われているとは言えない」と結論づけ難民を拒む官僚組織があり、移民排斥を唱え暴力に及ぶ極右集団が街を徘徊する。一方で主人公を対等な人間として扱い、仲間として受け入れる人々もいる。ユーモアを織り込ませることにかけては当代随一の巧さをもつカウリスマキが、そこに生まれでる物語の逐一に絶妙なエスプリを加え、味わい深く濃密な一編へと仕上げたのが本作だ。

 カウリスマキの映画に初めて触れる観客の中には、もしかしたら人物の硬直した演技に素人臭さを覚えたり、シンプルな画面構成に安直さを覚える向きもあるかもしれない。しかしそうした観客であっても映画の中盤には、例えば官僚組織の人々ほど肩を怒らせて歩くようにその「硬直」が人々の凝り固まった偏見の表現であることや、執拗に固定された視点そのものが現行のハリウッド的常識への反駁であり、小津安二郎に私淑した匠の術であることに、自覚の有無を問わず安心感すら覚えているだろう。

 このようなカウリスマキ独自の巧さは、元来時局から徹底的に距離を置き、彼個人の表現世界を深める営為の中で磨かれてきた。『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』から『過去のない男』へ至る作品履歴にもそれは顕著だが、今世紀に入って大きく変わる。彼をめぐる2002年のエピソードは、その転機となった。この年ニューヨーク映画祭に招かれていた彼は、キアロスタミ監督が米国への入国を拒絶されるに及んで、出席をボイコットして次のような声明を発したのだった。

 「世界中で最も平和を希求する人物の一人であるキアロスタミ監督に、イラン人だからビザが出ないと聞き、深い哀しみを覚える。石油ですらもっていないフィンランド人はもっと不要だろう。米国防長官は我が国でキノコ狩りでもして気を鎮めたらどうか。世界の文化の交換が妨害されたら何が残る? 武器の交換か?」

 こうした経緯を踏まえて『希望のかなた』を観る時、その笑いの裡に秘められた哀しみや怒りの凄まじさに改めて圧倒される。その熟練の手つきにより削ぎ落とされた余白の厚みに震撼する。カウリスマキは本作をもって自身の監督人生を終えると表明した。筆者としてはこの発言もまた彼のユーモアだと信じたいが、そう言わしめるほどに『希望のかなた』が、カウリスマキの持てるすべてを出し尽くした傑作である点については、深く納得せざるを得ない。(ライター 藤本徹)

 12月2日より、渋谷・ユーロスペース、新宿ピカデリー他にて全国順次公開。
配給:ユーロスペース

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Ⓒ SPUTNIK OY, 2017

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