私が教会を離れた理由 ブラック企業のパワハラと同じ構造 特集「改めて〝和解〟を問う」番外編 Ministry 2018年夏・第38号
教会で〝和解〟を考える際、より身近な足元の関係性に目を向けないわけにはいかない。8月発行のミニストリー第38号で特集「改めて〝和解〟を問う」の番外編として掲載された3本の手記「私が教会を離れた理由(ワケ)」が注目を集めている。いずれも何らかの理由で教会を離れ、時を経て再び〝和解〟への道を歩み出した者たちによる痛切な告白である。そこには、表面上の「隣人愛」とはほど遠い〝破れ〟の現実がある。今回、匿名で寄せてもらった手記の中から1本を全文公開する。
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ブラック企業のパワハラと同じ構造
Yさん(20 代・男性)の場合
敬虔な信徒の家庭に生まれ、大学に進学し、牧師を志したこともある。しかし、過酷な境遇によって刻まれた傷はあまりに深く、痛ましい。
親の前で募らせた絶望的な孤独
福音派の教会で育った二世クリスチャンの私が、教会を離れるに至った半生にわたる経緯を振り返ります。
発端は、小学3年生のある日でした。私は悪いことをした罪悪感から、母親に自分のしてしまった過ちを打ち明けました。母は親身になって聞いてくれましたが、私はその晩、母から伝え聞いた父が深刻な表情で悩んでいるのを陰から目撃してしまったのです。信頼していた母に裏で告発され、父に断罪される衝撃的な光景に、幼い私の世界がひっくり返りました。学校の教員だった父は仕事で毎晩遅くに帰宅し、ほとんど会えません。何もできないままに、これから自分は「悪い子」と父に思われ続ける、その恐怖に打ちのめされました。
この日から、自分がいつどこで両親に断罪されているか分からず、家で怯えるようになりました。両親の前で正直に振る舞えなくなった私は、何かあると自宅のトイレにこもって一人で叫ぶようになりました。そんなある日、父に「トイレに隠れて文句をいうのはみっともない」と叱られてしまい、いよいよ家の中で一切正直には表現できず、内にとどめるようになりました。そのうち自分の気持ち自体が分からなくなりました。学校や教会でも、目の前の人に陰口を言われているイメージにさいなまれ、絶望的な孤独が募りました。
次第に何かと人を恨み、攻撃するようになりました。小学校6年生の時には陰湿ないじめの多かったクラスで主導権を握り、クラスの全員を動員するいじめのリーダーになりました。標的は一番の親友。クラスメートを少しずつ巻き込み、クラスのほぼ全員で彼をいじめました。ドッヂボールで狙う。無視する。体型のことを言う。その采配は楽しくて仕方ありませんでした。最後は冬休み前に担任に知れてすべてが明るみになりそれは終わりました。いつも強権的な担任におびえていたのですが、その担任が「先生は悲しい」とだけ言って泣き出したので驚きました。私はここまで酷いことをできてしまった自分が怖くなり、いじめはやめようと思いました。
中学校へ上がると、失敗することへの極端な恐怖心も抱くようになりました。定期テストで自分を追い込み学年トップになっても、内心はわずかに間違えた自分自身への怒りが沸き立ちました。一方で自尊心が低く、自分の価値を感じられるような気がして、部活の部長や生徒会長などの役職に片っ端から飛びつきました。しかしいざ役職につくと、孤独感や陰口を叩かれる恐怖感で身動きがとれず、ノイローゼ気味になって学校を休むこともありました。親には「どうせわかってもらえない」と絶望し、何も話さない関係が定着していました。転勤族で近所や教会員との付き合いも薄く、他に頼れる人もいませんでした。
校区内に自殺名所の崖があり、身を投げることも考えました。しかしどれだけ自分が辛いか汲んではもらえず、親がかわいそうという話で終わるのだろうと思い、虚しくてやめました。
このころ、助けを求め聖書を開くようになりました。身近に語られた希望だったのです。教会には親と一緒に通い続けていました。両親は仕事や生活でどんなにたいへんなことがあっても必ず礼拝を守っていました。教会では、「苦しいこともすべてみ心である」「神は絶対なのだ。神と共にあることだけが幸せなのだ」と繰り返し聞いて育ちました。正直響きませんでしたが、神の存在を漠然とは受け入れていました。
転機となったキャンプでの奮起
高校に進学した私は、いよいよ人間関係におびえ、挙動もおかしく、声も出せず、友だちができませんでした。部活でも先輩や同期生と関係が作れず、ひどいストレスを抱えました。聖書に救いを求めましたが罪人を裁く言葉ばかりが目に留まり、自分は神に責められているのだと思いました。
夏休み、奮い立って所属教団のキャンプに参加しました。ところが他の参加者と話せず、テントで一人泣きました。しんどさのピークでした。それでも講師に相談している参加者を見て、私は思い切って講師に声をかけました。「自分が愛されている実感がなく、自分はダメだと思ってつらい」と告白すると、講師はすぐに「君がそう思っても神様は君をそのままの姿で愛してくださる。そういう友だちも与えてくださる」と言ってくれました。初めての経験でした。一緒に祈ってくれて、嬉しくて泣きました。そして、神を信じようと思いました。最終日には参加者全員の前でそう証ししました。これが自分の救いのタイミングだったんだと思いました。
実際には信じたというよりも「いるとは実感できないけど、いる方に賭けよう。そういう前提で動こう」と決意をしたのでした。自分が分かっていないだけで、疑わずに進めば報われるのだと考えました。毎日聖書を読み、礼拝と祈祷会に欠かさず参加するようになりました。
家庭での辛さは相変わらずでした。でも、「神はいると決め、賭けたんだ。だから信じて正しく生きねば」と自分自身に言い聞かせながら生活を送りました。根性が必要でした。自転車で学校から帰る途中、急に孤独感や絶望感が襲ってきたときには、キャンプで覚えた歌を家に着くまで歌い続けて振り払いました。祈祷会で牧師の説教を聞くときは、神の真理を知れている安心感がありました。そういう生活を続けると変化がありました。学校では部活のミーティングで積極的に意見を言うようになり、練習もがんばり、副部長に選ばれました。受験勉強も必死に取り組み、志望校に合格しました。コンプレックスだった人間関係の下手さも克服したように感じました。成果を手にして、信仰生活の勝利と報いを神に感謝しました。大学進学後はさらに信仰生活をがんばろうと思いました。
さて、大学受験の前夜、布団に入って祈っていると「牧師になりなさい」と強く言われている実感が湧き、神から声が掛かっていると思いました。しかし母教会の牧師の寂しく厳しい牧会生活を思い出して、泣きながら「嫌だ!」と小さな声で叫びました。受験もその後の人生も意味がなくなるように思えたからです。そのまま受験は成功しましたが、その体験は私の心に強烈に残りました。
鬱病と「献身」の志
地元の辛い人間関係をリセットしたかったため、大学は故郷から遠い地域を選び、地元を出ました。学生寮に入り、初めから「クリスチャンである」と宣言し、道徳的で清廉潔白な振る舞いを心がけました。ところが、生活は自堕落になっていきました。難関校に入ってプライドは保たれたものの、勉強したいことは特にありませんでした。役職に飛びついては孤独感と失敗する恐怖で固まる癖が出て、今度は周りの助けも求められず頓挫するようになりました。ショックから逃げるようにテレビゲームに走り、寮からも逃亡しました。ついには鬱(うつ)病になり、大学を休学しました。復学後は完全にやる気を失い、大学に通うのを黙って放棄し、留年を重ねました。
教会生活も辛くなりました。徐々に献身の思いが湧き、大学2年生の春、入学してから通っていた教会の牧師に献身したいと伝えました。その牧師は喜びましたが、そこから水面下の個人指導が始まりました。いくつも奉仕を任され、教会での態度や生活について口頭・手紙・メールで何度も否定的なコメントをもらいました。干渉されるストレスと後から発症した鬱病で、教会に行けなくなりました。後日、その牧師から実家の父に「Yくんはアスペルガーなのかもしれません」というメールが入り、障害児教育に携わる父は、素人判断だと激怒していました。
結局キリスト者学生会の知り合いが通う教会を訪ね、そちらに移りました。気の合う青年メンバーと出会えたおかげで生活は安定し、大学にも戻って年限ギリギリで卒業できました。
ただ、この時期に再び「献身したい」と思い始めました。就職活動の時期でしたが、就職の道を捨てれば「神のみ心が実現する」という「賭け」の信仰に立ちました。また自分の力に頼ってはいけないと思い、祈ること以外の努力を放棄しました。自分はこれだけ苦しんだのだから、特別な活躍ができるに違いないと信じ込んでいました。
授業の一環でお世話になった企業から来た採用オファーも流してしまい、進路が決まらないまま卒業しました。見かねた研究室の教授に助けられ、その企業に非正規職で採用してもらいました。いざ入社すると、正社員からは存在しないかのように扱われました。自由で明るい職場の中で誰とも話さず単純作業を繰り返していると、劣等感を覚えました。教会でもなぜか昼間の礼拝に出ることに対して引け目を感じるようになり、夕礼拝にひっそりと参加するようになりました。他の企業へ正職員として転職するとまた問題なく昼礼拝に行けるようになり、教会の見えない敷居を感じました。
就職と挫折 呪縛からの解放
晴れて正社員になれた先はブラック企業でした。金属を加工する現場で週休は1日、毎日朝7時半〜夜8時まで拘束され、サービス残業もしました。軍隊のような朝礼、昼休みに集められ弁当抜きで一方的に説教される「若手教育」。ミスをすればトイレ掃除が待っていました。
ここでも自分は信仰を貫きました。重役との食事会で会社のスキーを断り、日曜の行事参加はしないと明言したため、騒動となってしまいました。毎日のように本部長に「なぜスキーに行けないのか」と問い詰められ、しまいには「お前の神は日曜にしかおれへんのか!」とまで言われました。「なぜ会社を優先しないのか」という尋問は半年続き、強硬に信仰を主張するうちに鬱が再発しました。社内でも完全に干され、退職を選びました。
私にとってこれは挫折の経験でした。しかし同時に、今まで関わってきた教会が、この会社のありように似ていることに気づきました。「ともかく会社の言うことは絶対」というような、「ともかく神が絶対」という大前提。異を唱えず従うようになることが「成長」。何があっても出社することがまっとうな社会人という価値観と同様に、何があっても礼拝に出るべきという信仰。退職者を「救いようのないダメな人」と揶揄するように、教会を離れた人を「神のみ心に沿わなかった人」と扱う姿勢。悪影響を受けるので退職者との関わりを禁ずるように、教会でもサタンの扱い。1対1の場面では、「先生が」「教会が」「祈ったら」「部長が」「会社が」「直接相談したら」と、誰も責任を取らない。全員で毎度同じ心得を復唱し、偉い人の話を聞いて最後に拍手するという全体朝礼は、教会の礼拝とそっくりでした。
そうと気づいて、初めて「教会の言うことが絶対」という思考から解放されました。皮肉にも、迫害される経験を通して、教会もいかに不当な迫害を行っているのか分かったのです。
ともあれ無職になり、近くにあった親戚の家に居候をしました。この親戚は天理教徒でしたが、数カ月何も言わず生活を支えてくれたことが心にしみました。しばらくして障害者のグループホームに就職できました。
牧師、教会、父親への失望
このころ、母教会の牧師が教会会計から不当に収入を得ていたことが明るみになり、大騒ぎになりました。何年も前の総会議案の中に、「教会の積立は必要に応じて別の使途に使える」という変更をこっそりと盛り込んで賛成採決をとりつけ、会堂維持の積立を崩して自分の給与にしていたのです。子どもたちがみなバイトもせずに都会の私立大に通い、本人は人権派牧師として沖縄問題、憲法問題のため日本中を飛び回れていた理由は、ベテラン地方公務員以上の高収入でした。私が幼いころから20年間真理を求めて頼った牧師は、羊の弱みに付け込んで徹底的に食い荒らす狼のような詐欺師でした。私がブラック企業の給料から信仰の証として納めた何十万円もの献金も闇に解けました。信仰の土台が音を立てて崩れた瞬間でした。
追い討ちがかかりました。会計を洗い直した信徒の活躍もあり、牧師は退任、母教会は再出発しました。その直後、なんと父から「今月の月定献金はしないのか?」という連絡が入ったのです。事あるごとに父は「お父さんはどんなことがあっても月定献金はしてきた。今も十分の一以上出している。それが信仰だ」と言い、牧師による搾取体制の下、いつも「教会会計が足りない。祈ってくれ」と漏らしていました。教会と金の問題がどれほど信仰と関係ない部分で信徒を苦しめるのか、十分体験したはずです。それなのに、不正牧師の去った今なお「献金しろ」という要求を父にされ、私の我慢は限界に達しました。年収200万円台、貯金なしの福祉職にとって、十分の一献金をすることがとれほど生活を苦しめ、人生の選択肢を狭めることか! 自分にとっては、搾取される相手が変わっただけではないか! こうして私は母教会への献金をやめました。
その直後、通っていた教会でも事件に巻き込まれました。こちらは教会の役員会が宣教師に立場も給与も保証せず、「ともかく海外に行って教会建設を実現しろ」と追い詰め、遂に任を解く案件でした。役員会はその女性元宣教師の結婚にまで介入し、婚約者の所属する他教団の教会に牧師と共に押しかけて結婚を止めようとしたそうです。宣教師本人から個人的に話を聞き、暗澹たる気持ちになっていたある日、信徒の代表から電話が入りました。「例の件について、Y君が教会を悪く言っていると理事会で話題になったが、本当か」という問い合わせでした。「その件は知らないし関係も持ちたくない」といくら言っても、「本当かどうか確かめたい」「何かあるなら正直に言ってくれればいい」と食い下がられ、一方で噂の出所を聞いても「誰からともなく、噂が噂を呼んでね」とかわされました。ブラック企業で受けたパワハラそのものでした。
この一連の事件を経験して、自分の通ってきたプロテスタント福音派の教会自体が重大な欠陥を持っているのではないかと思い、教会自体から一度離れることに決めました。両親も、今の教会の役員たちも、その構造に飲まれて業を深めているように思えました。
神が和解してくださる日への希望
思い切って、以前から著書に触れ、感銘を受けていた神父の行うカトリック礼拝に参加しました。
その礼拝は、日雇い労働者の街の中で文字どおり社会の底辺に置かれた人たちと共に行われるもので、毎回「小さく、弱くされた者と神が共にいる」「低みに立って見直し、信頼して立ち上がるその時に、神が働かれる」と語られていました。「礼拝に8〜9割出席したからOKというのは違う。生活の中で隣人を大切にしていたら教会なんて来なくていいんだ」という神父のメッセージに、肩の荷が降りました。急に来て、小銭を何枚も賽銭のように献金箱に放り込み手を合わせて去っていく人を見て、十一献金をするのが信仰ではないことも納得しました。必要なのは礼拝出席や献金という〝いけにえ〞ではなく、生活での実践で、放浪して傷んでいる自分を大切にすることも肝心だと思いました。こうして無理して教会に通うこともやめました。
私は今、教会に一切行っていません。しかし礼拝と献金のプレッシャーから解放され、心身共に健康を取り戻しつつあるように思います。逆に、自分の仕事にとても価値を感じるようになりました。福祉の職場を利用される障害を持った方々こそ、イエスが「天のみ国はこのような者たちのものです」と言われた人たちであり、神父が言った「委ねられた地位と力を、小さくされた者たちのために使うことを通して、神の国に入れていただく」ことの私の実践の場がここにあると思えるからです。私は、言葉のない、最重度障害を持つ方の排便を処理しながら、彼と共にいるであろうイエス様に「天のみ国で、どうか私を思い出してください」と呼びかけるとき、「それは私にしてくれたのです」と神が和解してくださる日への希望を覚えるのです。
最後に。幸いにも今、私には結婚を考えている女性がいますが、彼女は福音派の教会に通うクリスチャンです。彼女はここに書いた私の半生を受け止め尊重してくれますが、もし結婚するとなれば、教会はどうするのか保留はできないでしょう。決して私の信仰問題は解決済みではありません。これからも、教会との関係には葛藤を続けていくことになるでしょう。