【映画】 〝沈黙と否認の文化〟に一石 『プリズン・サークル』坂上香監督インタビュー 2020年1月30日
島根の刑務所を舞台とする、日本初のTC(Therapeutic Community=回復共同体)導入現場を撮る映画『プリズン・サークル』。監督の坂上香さんに、自身も刑務所への慰問経験をもつ牧師の沼田和也さん(日本基督教団王子北教会)が話を聞いた。
映画の主調となるのは、対話を通し回復していく受刑者らの瑞々しい姿であり、それを支える民間支援員らの熱意が胸を打つ。法務省との交渉に6年を費やしたという撮影上の困難は映像の端々からうかがわれ、また受刑者の来し方に深く迫る砂絵アニメーションの挿入は心の奥へと響き、TCの全面導入には程遠い日本の現状も指摘されるなど、構成に優れたドキュメンタリー作品だ。
――たくさんのことを考えさせてくれる映画でした。冒頭部でまず意外に感じたのは、刑務所内でTCに取り組む職員(支援員)に、若い女性がいることでした。とても積極的に取り組む姿勢が印象的でしたが、何か問題は起きないのかとも思いました。
新しい分野ということもあり、若い女性からの志願が多いようです。彼・彼女らのやることは、専門家として対象との距離を保つ臨床心理士とは真逆で、受刑者と全人格的に関わろうとします。映画には含めませんでしたが、TCの現場では支援員の方も自分のことや親との関係などを赤裸々に語ります。
日本へのTC導入元となったアメリカの団体「アミティ」でも、女性スタッフは多いのです。女性が多いことは、特に性犯罪者男性の更生過程では重要です。彼らは女性を性的対象としてしか見てこられなかった。性犯罪者による罪状の吐露は時に想像を超えてひどい内容を伴い、映像を撮る自分にさえ耐えがたい場合でも、彼女たち支援員は冷静に対応します。その積み重ねが受刑者の女性に対する見方や考え方へ、のちのち深い影響を与えていく。
アメリカの場合、TCに携わるスタッフには元受刑者やLGBTQのセクシャルマイノリティの方もいて、日本よりもより訓練を積んでいます。日本はこの点、まだまだ尻込みしていますね。現状は全国の刑務所のなか島根の1箇所でのみ行われ、初犯など軽度の受刑者だけを対象としています。より重罪の人を相手にと考えるなら、今の体制では対応しきれないでしょう。しかし本来やるべきは重罪者へのアプローチです。そのためにはTCで成長した元受刑者が支援者に加わるなど、スタッフの側にも成熟が求められますね。若いスタッフのやる気だけでは、重罪を背負う根っからのヤクザなどの人生をおそらく受け止め切れないケースが生じかねない。逆にかつてTCを経験した元受刑者が支援者に回る場合、いわば受刑者に多く見られるような厳しい環境を生きてきた先輩格の存在としての指導力が期待でき、実際アメリカではそのように機能している現状があります。
――いまお話をうかがって、堀川惠子さんの著書『教誨師』が思い起こされました。死刑囚と向き合う渡邉普相という僧侶の方へ取材された本なのですが、死刑執行に立ち会い続けた彼は、守秘義務があるため死刑囚との語らいを他の誰とも分かち合えず、自身がアルコール依存症に陥り入院してしまいます。私自身、牧師として教会を訪れる方の相談を日々受けていますが、犯罪とは無縁の日常的なケースのみでも、受け止めることは時にかなりしんどい。この意味でも、一人や1対1の関係性で改善を目指すのではなく、皆で輪になって座り語り合うことの効能は大きいのだろうなと思わされました。
そうなんです。そこではみんなの知識や経験が活かされることにもなる。彼らの経験は別に悪いことばかりではなく、良いこともたくさんあるし、各人が優れた面を各々もっている。『Lifers ライファーズ 終身刑を超えて』では「アファーメーション」といって各々が互いの良い面を褒め合うシーンがありますが、『プリズン・サークル』の現場でもそのような場面はありました。さまざまな制約があり、今回作品に収めることはできませんでしたが。そのように良いことも悪いことも分かち合う試みこそが、罪を犯した人たちには必要なのです。
――事情があって私は精神病院である時期を過ごしましたが、ある日窓の外の夕陽が落ちるのをぼんやりと眺めていたんですね。すると同室の少年たちもガラスに頭をつけて一緒に眺めている。それで、何をしているのかと少年たちが聞いてくるから、「綺麗だなと思って」と答えると、彼らがきょとんとなって「綺麗って何ですか?」とさらに聞いてくる。聞かれてみると、綺麗は綺麗だとしか言えない。その時ほど自分のボキャブラリーの貧困さに衝撃を受けたことはないし、妹を金槌で殴って入院してきた少年が「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と真顔で聞いてくるとか、そういうことばかりでした。おそらく重度の発達障害なのですが、こういう場合そのようにして世間から隔離することの逆効果を思わざるを得ない。「少年が勉強したいと言っているのだけど、勉強部屋とかないのですか」と病院側へ尋ねても、ここは病院なのだからそんなものは用意できないと。そこは閉鎖病棟だったのですが、少し『プリズン・サークル』の刑務所に似たものを感じました。
今はもう学校も似たような場所になりつつある。例えば「黙食」とか「黙掃」みたいなことが平然と行われる。子どもたちへのこうした「沈黙の強要」は、私が1990年代に初めて日本の刑務所を訪れた際に衝撃を受けた「沈黙の強制」に通じている。刑務所は、一般社会がもつある側面がものすごく凝縮された形であらわれる場所なのだと思います。初めて少年院を訪ねた際には、「社会ばなしをするな」というポスターが掲示されていたのをよく覚えています。「社会ばなし」ってつまり世間話のことで、唯一の息抜きであるおしゃべりすらも禁じられ、しかもそれを禁じる警句やイラストを少年たち自身が描かされる。それから日本の刑務所は変わらないだろうなという印象を抱くようになったけれど、TCを知ってこれをもう少し広げたいなと着想したのが作品の原点になりました。制約は多く、交渉開始から完成まで10年かかりましたが。
――私も一度、賛美歌を歌う慰問目的で教会員と共に刑務所へ訪れたことがあります。ところが聴衆である受刑者は厳格に整列させられ、手足も頭部も微動だにしてはいけない。ふつうステージで歌を歌うというのは、相手の反応があるから歌えるという面があるのに、そこを全否定される難しさがありました。体が少しでも動くと即刑務官から叱られる。しかし歌に反応したらダメって、何のための慰問かと。
女性の元受刑者やHIV/AIDS陽性者によるアマチュア劇団を撮る私の前作『トークバック 沈黙を破る女たち』の「トークバック」とは字義通りに語り返すこと、つまり反応のことなんですね。それをある少年院の院長さんが気に入ってくださり、「うちの女の子たちに見せたい」と言ってくださったことがあるんですね。そこまでは良かったし開明的な院長さんだったけれど、それでも蓋を開けてみれば同じように厳しい規則があり、彼女たちの学ぶ権利を奪っていると感じました。
――昨今の厳罰化が望まれる風潮には違和感も覚えますね。例えばTCのように自分の罪と向き合うことの方が、その厳しさで言えばどんな懲罰よりもよほど厳しい。キリスト教では悔い改めるということが重要視されますが、この悔い改めという言葉も原義をたどると「metanoeo」、すなわち「振り返る」という意味に行き当たります。振り返った時に初めて現れる「やってしまったなぁ」という感覚に重きが置かれる。それはやはり、過去にしたことは水に流して済ますというのとは違うんです。映画の中でも、受刑者間で話し合ううち言葉に詰まり涙を流す場面がありますが、苦しくつらい経験だけれど意味があるということは大事だなと。ただそれとは別に、出所した人たちが集う同窓会のような場で、さっそく万引きに手を出していることを吐露し出す人がいて、この人はいつか戻りそうだなという予感がしたりもしました。
その子はいまダルク(依存症からの回復をサポートする著名な民間団体)につながってがんばっていますよ。試写会にも2度来て、自分の出演場面はとても観れないと俯いて過ごしたりもしますが、上映後に観客200人の前で「今日も観れませんでした。今は1日1日が回復だと思ってがんばってます。次に観る時は、ちゃんと自分の姿を観れたらいいなと思います」と話して、もう会場は感動の嵐でした。
――作中では受刑者のプライバシーに配慮した演出も見られましたが……。
実は登場する受刑者の中には、刑務所の中にいる段階から顔出ししても良いと言う人もいたし、むしろ望む人すらいたのですが、そこは法務省サイドが最後まで認めませんでした。「受刑者の人権を守るため」とも言うけれど、本人が望んでいる場合でも「人権」が問題になるのは変な話です。出所後については法的には何ら問題はないはずだけれど、「鑑別所の保護観察下にあるから」などの理由が挙げられました。
【映画】 あるイラン人監督の祈りと覚悟 『少女は夜明けに夢をみる』 メヘルダード・オスコウイ監督インタビュー 2019年12月16日
――イランの少女向け更生施設を撮る映画『少女は夜明けに夢を見る』を坂上監督もご覧になったとのことですね。刑務所を舞台として、グローバル化のもと人々を包摂してきた旧来のシステムが崩壊する中で個人が孤立化する様を背景とする点で、『プリズン・サークル』やアメリカを舞台とする監督の過去作とも共通する面の多い作品と感じますが、これらとの相対を前提に日本の刑務所あるいは日本社会の特殊性を挙げるなら、どのようなことが考えられるでしょうか。
規律と管理の極端な過剰さが行き着いた結果としての、先に述べた「沈黙の強要」などですね。イランって、特に女性に対してはイスラームの戒律的にも厳しく抑圧がかかる状況があるはずなのに、にもかかわらず『少女は夜明けに夢を見る』の少女たちは、あんなに自由に踊ったり歌ったり、顔も出して笑って。そのすべてにおいて日本とは違う。だから収容施設であるあの場所が、少女たちにとってはある種のサンクチュアリとしても機能する。日本の女子少年院では、ああしたことは許されません。刑務所と少年院はもちろん一緒にはできないけれど、そこには学校や会社にも共通する日本社会の管理スタイルが凝縮されています。みんなが同じことしていて、少しでも違ったら罰するというスタイルは、日本では昔からあったけれど近年より過剰になっている気がします。ただ、担当職員によって、かなり対応が違うのも事実です。
『少女は夜明けに夢を見る』の少女たちは、誰かが泣き出すと他の誰かが寄り添って、優しくハグしてあげる。誰かが歌い出すと、その声に導かれミュージカルのように合唱が始まったりする。日本では他人に触ってはいけない、私語もいけない。
――そう考えると、日本は戦前の軍隊のようになっている感じもしますね。
そうです。それが裏返しとなり、例えばネットには罵詈雑言があふれている。いまは学校でさえこの傾向が強まっている。体育で「前へならえ」は昔からさせられたしそれだけでも外国人の多くは驚くのですが、うちの子なんか小学校の時は体育で匍匐前進をさせられていて、やめさせてくれと言ったけれどダメでした。
――互いの縛りを強め、ますます汲々としてきている面を感じますね。最近では中国の先鋭的な監視社会化がよく言われるけれど、日本でも社会全体が収容所のようになり出している観はある。これからも坂上監督はこうした時流を踏まえた活動を続けられると想像しますが、今後の予定についてお聞かせいただけますか。
いくつかプランはありますが、まだ怖くて踏み出せていませんね。私の企画は、一度次作へとりかかると先がとても長くなるので。それよりも今は、本作の展開に専心している状態です。カジュアルにこうした作品が観られる環境を準備することはとても重要だと。『プリズン・サークル』に描かれるような人々が、本当は親戚とか会社とか誰の周りにも普通にいるのに、見えにくくする力の働く社会ですから。
――死刑囚表現展の活動は今後も継続されるのでしょうか。
未定です。死刑囚表現展は大道寺幸子さんという方の寄附を基に当初は10回で終える予定だったのですが、すでに15回を数えています。応募作が毎年ダンボールで2箱くらい送られてきて、それは本当にトラウマになるような内容を含むものなんですね。それらと向き合うのは場合により精神的にあまりにもつらく苦しかったりもするのですが、その展示会場は表現を通して観客と死刑囚が出会う場所になっている。地方の会場などでは、作品の前で子どもたちが宿題をして、「この絵なに?」と周囲の大人に聞いたりする光景も見られたと聞いています。それは貴重な機会になりますよね。
――死刑囚とは何者なのかということが、まず知られない状況を変えることは大事ですよね。私は教会付属の幼稚園の園長をしていたこともあるのですが、現場レベルでもとにかく「配慮、配慮」で子どもに何もさせない方向へ流れていく。危険なもの有害なものは、あらかじめすべて取り除かなければならなくなる。けれど子どもだって適切には傷ついた方がいいのでは、傷つかないで大人になってしまって良いのかという疑問は残ります。
傷つくことを避け、その後どうするかを学べないなんて、そんなのもう人間じゃないですよ。
――危ないものをあらかじめ取り除き、それがない状態を前提にものを考えることに慣れた挙げ句、本当の危険が見えなくなるという悪循環の先には、原発事故なども想起されますね。
本当にそうですね。沈黙と否認の文化の末路が原発事故ということは言えると思います。その意味でも、こうした風潮は変えていかなければなりません。
――ありがとうございました。(聞き手 沼田和也、藤本 徹)
1月25日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中。
監督・製作・編集:坂上香
撮影:南幸男 坂上香 録音:森英司
アニメーション監督:若見ありさ 音楽:松本祐一 鈴木治行
製作:out of frame 配給:東風
公式サイト:https://prison-circle.com/
*坂上香監督による『少女は夜明けに夢を見る』レビュー:https://websekai.iwanami.co.jp/posts/2750(WEB世界)
*藤本による《死刑囚表現展2019》レビュー:https://twitter.com/pherim/status/1203980100695293958
©2019 Kaori Sakagami