【伝道宣隊キョウカイジャー+α】 コロナ禍が教会にもたらしたもの キョウカイバイオレット 2021年8月7日
2019年12月。惜しまれつつ「活動休止」を宣言した伝道宣隊キョウカイジャー。長い充電期間に入ったかと思いきや、実はそれぞれが単独での〝闘い〟を継続しているとの情報が入った。ポピュリズムの台頭、香港民主化運動への弾圧、米大統領選、コロナ禍、ミャンマーの軍事クーデター……。世界的な危機の只中で、再び彼らの力が必要とされる時代が来ているのかもしれない。彼らの〝復活〟は今日限りなのか、それとも??
新型コロナウィルスの蔓延が「コロナ禍」と呼ばれるようになって久しい。2020年の初めから現在(2021年8月)に至るまで、私たちはマスク着用やソーシャルディスタンスの確保といった「新しい生活様式」を余儀なくされてきた。関連情報を見ない日、意識しない日はほぼないと言っていい。
この惨禍にあって、キリスト教会も変化を迫られた。その際たるものがオンライン礼拝への移行だろう。これはIT技術を通して信者が仮想的に集まるという、キリスト教史に例を見ない極めて現代的な変化だ。
オンライン礼拝は当然のごとく議論を呼んだ。画面上の礼拝は礼拝と言えるのか。そこで私たちは礼拝の本質に直面させられた。礼拝とは建物なのか。皆が物理的に集まることなのか。画面越しでは礼拝したことにならないのか。何が礼拝を礼拝たらしめるのか。
その答えが何であれ、オンライン礼拝が「物理的に集まれない」状況において有用な手段であったことは否定しがたい。コロナ禍以前から諸事情あって所定の日時(多くは日曜の午前)に教会に集まることができなかった人々に、画面越しであれ、礼拝参加の道を開いたのもまた事実だ(コロナ禍が去ってオンライン礼拝をやめてしまったら、彼らは再び切り捨てられてしまうだろう)。
「オンライン礼拝はあくまで代用品に過ぎない。本物の礼拝にはかなわない」という意見もある。現段階の技術においてはそれも否めない。場の空気や儀式性は、宗教の大切な要素の一つだからだ。しかしここで重要なのは「本物にかなうかどうか」でなく、「礼拝として認められるかどうか」だろう。
オンライン礼拝の是非について考える上で大切なのは、教会の伝統や慣習の問題と、キリスト教の信仰や教義の問題を混同しないことだ。「今までこうしてきたから」といった思考は、新しいやり方や異質な方法を頭から否定してしまう。むしろ信仰や教義に照らして「現代の礼拝の姿」を、私たちは模索していくべきでないだろうか。
もう一つコロナ禍がもたらしたのは、誤情報やデマ、陰謀論の拡大だ。個人が発信力を持つSNSの時代ならではの現象とも言える。誤った情報や眉唾ものの情報も、一定の支持を集め拡散されることでそれらしく聞こえるようになる。
キリスト者もその影響を受けている。昨今はワクチンを巡る応酬をよく見かける。2021年3月の時点で、米福音派の白人成人の約3割は「絶対にワクチンを接種しない」と回答したという(「義務付けられない限り打たない」「様子を見る」を合わせると約5割に達する)。
コロナ禍がキリスト者の分断を生んだ形だ。私個人も同じ文脈で、近しい人との分断を経験した。しかしこれはコロナ禍が生んだ分断でなく、コロナ禍が可視化し決定づけた分断ではないかと私は思う。
聖書は「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」(エペソ人への手紙2章14節=新改訳)と語る。私たちは現代の「隔ての壁」に対して、何をすべきだろうか。そして何ができるだろうか。
キョウカイジャーとしての模索は、今も、そしてこれからも続く。
【参照記事】
キリスト教福音派に広がる反ワクチンの風潮、不信感と誤情報が原因と専門家
https://www.cnn.co.jp/usa/35169433.html
キョウカイバイオレット
紫乃森ゲール(しのもり・げーる) 医療現場で傷つき病める人々を支え、代弁者として立つ看護系はぐれキリスト者。あらゆる差別、無理解、誤解と日々戦う。冷静と情熱の中間くらい。ツンデレ。武器:痛くない注射/必殺技:ナイチンゲール型四の字固め/弱点:パクチー