【対談】 許しと悔い改めから 癒やしと和解へ マイケル・ラプスレー×西原廉太 Ministry 2015年夏・第26号
*マイケル・ラプスレー司祭の庭野平和賞受賞を記念して2015年発行の雑誌「Ministry」より対談記事を掲載。
南アフリカのアパルトヘイト撤廃運動に献身し、1990年、手紙爆弾によって両手と片目を失った聖公会司祭(聖使修士会)のマイケル・ラプスレー氏が、2015年6月に初来日した。韓国で開かれた世界教会協議会(WCC)第10回総会の閉会礼拝で同氏の説教を聞き、感銘を受けた西原廉太氏(本誌編集委員)は、帰国早々「Redeeming the Past」の邦訳書『記憶の癒し――アパルトヘイトとの闘いから世界へ』(榊原芙美子・吉谷かおる訳、聖公会出版)を監修した。今回、聖公会神学院での講演を前に、2人の対談が実現した。壮絶な体験から生まれた「記憶の癒し」プログラムから、和解のための糸口を探る。
キリスト教雑誌の間に爆弾
神さまが共にいてくださる
西原 まずは1990年4月に先生が受けられた経験についてお話しいただけますでしょうか?
ラプスレー ネルソン・マンデラが解放されて3カ月後のことでした。民主主義への道が始まったと誰もが感じていた中で、まさかそのようなことが起こるとは思いもしませんでした。爆弾は、何と2冊のキリスト教雑誌の間に挟み込まれていたのです。1冊は英語、もう1冊はアフリカーンス語のものでした。英語の雑誌を開けたところ、それが爆発したのです。たいへんな痛みでしたが同時に、神さまが共にいてくださるのを感じていました。神さまが、「私はいつもあなたと共にいる」と聖書の中で約束してくださったことを思い出していたのです。マリアが十字架に架けられた息子のイエスを足元から見つめ、いま何が起こっているかを理解しようとしている。そのような感覚だったのです。ともかく私は生き残ることができましたが、その後、まるで赤ん坊のように一人では何もできなくなってしまったのです。しかし、世界中の人々の愛と祈りによって、私は心の中に幽閉された囚人となるのではなく、もう一度、他者のために生きる者として歩むことが許されたのです。
西原 WCC釜山総会での先生の説教の中で特に印象深かったのは、片足が短いイエスを描いたイコンのお話でした。
ラプスレー はい。正教会のイコンでしたが、片足が短く描かれたイエスでした。イザヤ書の「苦難の僕」から取られたイメージです。伝統的なキリスト教が保持してきたイエスのイメージは、完全で力強くて、白く輝く衣をまとった姿です。しかし、そのイコンはそうではなかった。それが私の癒しを助けてくれました。障がい、不完全さ、破れというものを負った傷ついた者こそが癒し人として召されているのだということを、そのとき私は知ったのです。
連鎖を断ち切るための解毒
「記憶の癒し」のプロセス
西原 1998年に「記憶の癒し研究所」を設立されるまでの働きを教えていただけますか。
ラプスレー 手紙爆弾で傷ついた後、私はジンバブエの病院で治療を受け、それから7カ月間オーストラリアの病院で治療を継続しました。私がオーストラリアの病院にいるときに、南アフリカの友人から電話をもらいました。彼は、南アフリカ・ケープタウンにおいてアパルトヘイトで傷ついた人々のためのトラウマセンターを設立したと言いました。私はそのとき、もしかするとこれは私にもできる働きかもしれないと思ったのです。1993年、私はそのトラウマセンターのチャプレンとなりました。そのセンターのプログラムを発展させたのが「記憶の癒し」でした。
西原 そして「記憶の癒し研究所」が南アフリカに設立されたのですね。
ラプスレー はい。それは南アフリカでの「真実和解委員会」とも連動した動きでした。南アフリカのすべての者がアパルトヘイトで傷ついた。すべての者が癒しを必要としている。そのような思いでワークショップをし、過去に傷ついた出来事を自らの物語として語ることによって、まるで解毒するような働きとなり、癒しへと促すことができることを見出したのです。ワークショップは、自分の身に何が起こったかを言葉に出してみるところから始めます。国家にせよ、共同体にせよ、個々人にせよ、痛みの連鎖、被害者が加害者になり、加害者が被害者になるといった連鎖をどこかで断ち切らなければなりません。そのためには解毒が必要なのです。
西原 そのワークショップについて詳しくお聞かせくださいますか。
ラプスレー 初日の夜はまず参加者の中でコミュニティを形成することに努めます。お互いに最近起こったことを話し、聴き合います。要するに「あなたのボタンを押して」ということです。「ボタン」というのはもちろん各自の心の中にあるもので、自分を過去の経験へと連れ戻す「ボタン」です。過去の経験がどのような意味を持っているのか、いまの自分にどう影響を与えているのか、可能な限り分かち合います。2日目は、紙とクレヨンを渡して、過去の経験を文字ではなく絵で表現してもらうことから始めます。さらに小さなグループを作り、互いの物語を語り合います。それはディスカッション、議論ではなく互いの物語をひたすら傾聴し合うのです。時にその物語が、20年も30年も前の出来事であることもあります。しかし、いままで誰にも語ることがなかった、語ることができなかった。語るに「安全な」場が備えられなかったからです。
西原 なるほど、「安全な場」の提供こそが大切なのですね。
ラプスレー まさにそのとおりです。過去の痛み、経験をずっと閉じ込めざるを得なかった人々が、解放されはじめていくのです。2日目の終わりには、「記憶の癒し」とはどういうことかをリフレクションします。3日目の初めに、今度は粘土を配ります。粘土で「平和と希望のシンボル」を自由に創作してもらいます。それぞれが造った平和と希望のシンボルを用いて、最終的にはセレモニーをします。そのセレモニーの中で、参加者にはこのワークショップを通じての気づき、与えられたこと、残されたことを語ってもらいます。
西原 それらすべてが「解毒」のプロセスなのですね。
ラプスレー そうです。セレモニーの中で、それぞれの希望のシンボルを捧げて、誰かのことを覚えながらろうそくに火を灯します。その誰かとは、その人が傷つけた人であるかもしれないし、逆に傷つけられた人かもしれません。また、最近亡くなった人や、いま心配でたまらない人のことかもしれないのです。
西原 ワークショップに集まる人には、被害者もいれば加害者もいる、ということでしょうか?
ラプスレー そうです。そもそも誰しも被害者の側面と加害者の側面の両方を持っているものです。いずれにしても段階を踏むことが大切です。最初の段階では、それぞれが率直に自分自身の経験を分かち合えるように促していきます。
多様な痛みを抱えた人、国
「傷」を癒すための悔い改め
西原 「許し」というのはどのようにして生まれるものなのでしょうか。とても難しいように思えるのですが。
ラプスレー おそらく最も難しいのは自分自身を許すことでしょうね。しかし、いずれにしても他者を許すことは難しいものです。とりわけ教会の中では難しいかもしれません。なぜなら、教会の中では「許し」という言葉があまりに使われ過ぎて、それは簡単で安価なものとなってしまう危険があるからです。人が誰かを許すというのは、犠牲的であり、痛みが伴うものです。人も国も、単一の痛みやトラウマではなく、多様な痛みをその中に抱えています。紛争の原因は世代を越えていくものです。その痛みはすぐに解決されるものではなく、次世代に引き継がれていくこともあります。そうする中で、痛みやトラウマはますます複層的になるのです。日本聖公会の主教会の声明にも語られているように、70年前(敗戦時)の痛みをいまの時代にもう一度認識しようということです。しかし、たとえ70年の時を経たとしても、その痛みが認識されるということは希望でもあります。
西原 日本聖公会は1996年に「日本聖公会の戦争責任に関する宣言」を総会議で決議しました。それは侵略戦争についての国家の責任のみならず、「教会」としての責任を認めたものです。2年後の98年にカンタベリーでランベス会議が開かれました。ご承知のようにランベス会議では毎朝、各管区が朝の聖餐式を司式しますが、日本聖公会が担当したのは8月6日でした。その日は、主イエス変容の日でもあったのですが、殊に「広島」を覚えての祈りが持たれました。式文を作成したのは日本聖公会でしたが、その中に「日本聖公会の戦争責任に関する宣言」も含められました。また説教者には、英国教会の女性の司祭であるスーザン・コールキング先生にお願いしました。彼女のお父様が、戦中にシンガポールで日本軍から虐待を受けたという方です。この日の聖餐式は「和解」というキーワードと共に、大きなインパクトを与えました。私は、他者に与えた「傷」を癒すためには、率直な悔い改めが求められるのだろうと思います。
神学的課題としての
アパルトヘイトとの闘い
西原 アパルトヘイトはもう完全に払拭されたのでしょうか?
ラプスレー まだ、ステップ1が終わったところです。私たちが本当に「ひとつの国」を作り上げることができるのか。それは次のステップです。それは世代を越えた旅です。私たちの民主主義はまだ始まったばかりなのです。例えば、アメリカに行って「南北戦争は終わりましたか?」と聞くとしたらみんな笑うでしょう。しかし、未だに全米各地に南北戦争の傷跡が残っています。南アフリカの民主主義が始まってまだ25年しか経っていないのです。
西原 私が2006年にブラジル・ポルトアレグレで開催されたWCC第9回総会に参加した際に、総会の特別ゲストのお一人がデズモンド・ツツ大主教でした。ツツ大主教は、アパルトヘイト撤廃のためにWCCが果たした働き、殊にPCR(人種優越主義と闘う委員会)プログラムへの感謝を述べられた後、このように言われました。「なぜアパルトヘイトがあれほども続いたのか。それは教会が分裂していたからだ」と。その点について、ラプスレー司祭はどのようにお考えでしょうか。
ラプスレー 確かに、「神学的アパルトヘイト」のほうが「政治的アパルトヘイト」よりも前から存在していたのです。19世紀では、白人キリスト者は、黒人キリスト者と同じ食卓につくことを拒否していました。その拒絶を正当化する「白人の神学」が政治的アパルトヘイトの源流となっているのです。ですから、アパルトヘイトとの闘いは単に政治的、経済的、社会的な人権問題ではなく、常に神学的課題であった。福音の真理とは何かについての闘いでもあったのです。一方で、アパルトヘイト国家は主要な理念的武器としてのキリスト教を失ったとも言えます。和解のプロセスはそういう意味でも始まったばかりなのです。
西原 エキュニメカル運動に関心を持つ者の一人として、私は真のエキュメニズムが正義と平和、和解のためには必要なのだろうと確信しています。
ラプスレー 「和解」というのは、キリスト者にとって選択的なものではなく、福音において本質的で、不可避的なものだということです。そして和解の働きとは不断の歩みに他なりません。また同時に、和解というのは「記憶の癒し」から始まるとも言えます。日本聖公会主教会がその戦後70年の声明の中で、すべての日本聖公会に属する者たちに「平和のシンボル」となるように求めていることも、それゆえ重要なことです。
西原 一方で、残念ながら宗教というものが和解に貢献してきたとは言い難い面もあります。
ラプスレー ですから、私たちには悔い改めと他者への敬意が必要なのです。本来、いかなる宗教も暴力を肯定することはなく、共感・共苦というものを大切にしてきたはずです。私はかつてラテンアメリカの仲間から、「マクロ・エキュメニズム」という言葉を学びました。「マクロ・エキュメニズム」は、この地上のあらゆる諸伝統、諸宗教を相互に意識し、互いに寛容を持って理解するだけでなく、尊敬を持って受け止め合うことを求めます。和解、正義、平和というものは人間に共通する深い課題です。それはただキリスト教のみで取り扱うものでもありませんし、また取り扱うべきものでもありません。
西原 最後に、日本のキリスト者にメッセージをお願いいたします。
ラプスレー 日本におけるキリスト教人口は1%以下だと聞きました。しかしそれゆえに、日本のキリスト者の皆さんは、日本の社会で「地の塩・世の光」となることの意味を真剣に考えておられると思います。聖書の中で「地の塩」のイメージとは、ある意味ですべての食事を味付けるものです。たとえ皆さんが少数者であっても、本物が何であるのかを明らかにしていくことのできる機会を持っておられるのだと思います。時に肩身の狭い思いをするかもしれませんが、少数者こそが真理を知っていることがあるのです。
西原 本日は貴重なお話をありがとうございました。
マイケル・ラプスレー
1949年、ニュージーランド生まれ。オーストラリア聖公会で司祭に按手、聖使修士会(SSM)に入会。73年に南アフリカに派遣され、アパルトヘイト撤廃闘争に参加。ダーバン大学チャプレンとして、黒人、白人両方の学生と深く関わる。76年、南アフリカを追放され、レソト、さらにジンバブエに移住。幾度にもわたる暗殺の危機を免れてきたが、90年、ネルソン・マンデラが獄中から解放された3カ月後、手紙爆弾により両手と片方の視力を奪われる。
西原廉太
にしはら・れんた 1962年8月26日京都府生まれ。立教大学総長。博士(神学)。専攻は、アングリカニズム、エキュメニズム、組織神学、現代神学。研究テーマは、16世紀英国宗教改革の神学を端緒に、時代を超えて通底するアングリカン神学のダイナミズム。著書に『聖公会が大切にしてきたもの』(教文館)ほか多数。キリスト教学校教育同盟第28代理事長。世界聖公会大学連合会(CUAC)理事、世界教会協議会(WCC)中央委員、「Ministry」誌編集委員。