映画『秋が来るとき』 自然のうちで祈ること フランソワ・オゾン監督インタビュー 2025年5月30日

 終わりの秋(とき)をどう迎えるか。『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』でカトリック教会の欺瞞を鋭く刺した名匠フランソワ・オゾン監督の新作は、人生の終幕へと向かう姿勢を問う質実作だ。

 『秋が来るとき』主人公の80歳女性ミシェルは、ブルゴーニュの里山で穏やかに暮らしている。親友と裏山へ分け入りキノコを採る冒頭部は、穏やかな老後を想わせる。しかし間もなく不仲な実の娘との関係性が描かれ、一筋縄ではなかったミシェルの過去がすこしずつ、直の言及なしに仄めかされていく。やがて実娘はパリの自宅で事故死を遂げ、時を経て臨終間際の親友から実娘の死の真相を聞かされる。

 日本社会でも「終活」の語が人口に膾炙して久しいが、受け身でなく自覚的に己の生涯へ決着をつける試みは、言うほど容易な「活動」ではない。なぜならその時点における生活環境や財産処理など外面を整えればどうにかなる話ではなく、内面の真実こそが問題の核心となるからだ。

 『秋が来るとき』は、教会礼拝の場面に始まる点がこの意味で示唆的だ。そこで神父の振る舞う説教がマグダラのマリアをめぐる一節であることは、予兆として響く余韻を後続の場面へ残し、祈りの時間こそミシェルの穏やかな暮らしの底流をなすことが、こうして端的に表現される。

 オゾン監督による二十数作におよぶ長編映画の履歴を見渡したとき、家族、女性、晩年の各テーマはくり返し描かれてきたが、そこで通奏低音のようにいつも響いてきたのは、個の尊厳や社会の倫理を鋭く伐りだすことで色鮮やかさを増す人間讃歌の数々だった。この観点から『秋が来るとき』を観ると、2018年作『グレース・オブ・ゴッド』や2021年作『すべてうまくいきますように』の流れを継ぐ要素に本作が満ちていると気づかされる。

 『秋が来るとき』主人公のミシェルは、穏やかな信仰を持つ人物として描かれる。とりわけ冒頭の教会場面でのマグダラのマリアへの言及に耳を傾けるミシェルの仕草や、終盤での教会場面で後方へ参列する昔の同僚たちを眼差す表情の厚みは、『グレース・オブ・ゴッド』と通底する《赦し》のテーマや社会批判に裏打ちされて感じられる。同僚たちはその化粧や服装から、かつてないし現在も娼婦として暮らす人々であることが仄めかされる。少女が好奇心から売春を重ね現実の重さを知る2013年作『17歳』や、『17歳』主演のマリーヌ・ヴァクトが成長し妊婦を演じる場面を含む2017年作『2重螺旋の恋人』の残響も感じられる描写だが、今回『秋が来るとき』で主人公をこうした人物造形とした背景や、そこに関連する監督自身の信仰の履歴について尋ねると、以下のような答えが返ってきた。

 子どもの頃は、カトリックの教えがとても強い環境で成長しましたし、キリスト教から受けた影響は大きいです。なかでも赦しと贖罪の考えかたには、子どもながらになんて都合がいいんだろう、悪さをしても神様が赦してくれるんだ、というすこし天邪鬼な仕方で興味をもっていましたね。この映画のミシェルにしても、罪を犯しても神の愛によって赦される、という信仰を拠りどころにする人物として描きましたが、こうした信仰の形には以前から深い関心がありました。

 これに関連し、現在の信仰について尋ねると含み笑いを浮かべすこしの間をおいたのち、監督はこう語った。

 ちょっと冗談っぽくいいますと、今わたし自身の信仰する瞬間は、飛行機に乗る前くらいでしょうか。毎度このときばかりは、どうか落ちないでくれと祈りたくなりますね。というのも、私自身は教会全体にとても失望させられたんですね。とくに『グレース・オブ・ゴッド』で描いたような、教会組織の隠匿体質にはとても落胆させられた。言葉では愛に溢れた宗教だと言っておきながら、現実には大変不適切な行為をしていたという事実を知って、私自身が養ってきた信仰心はかなりの程度断絶してしまったところはあります。

【映画評】 沈黙を破ること、その代償と得がたき果実 『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』 2020年7月21日

 「救いの道たるべき信仰の場、神の家に裏切られたと感じたあと、ひとはどのようにして生きられるのか。」これを『グレース・オブ・ゴッド』後半に主題化してくる問いと踏まえて読み解く映画評を、かつて筆者は書いた(↑上述リンク先)が、それが監督自身の経てきた隘路そのものであったことには、不覚にも今回初めて思い至った。

 ところで『秋が来るとき』には、主人公の子ども世代にも興味深い人物がふたり登場する。そのふたり、実娘のヴァレリーと親友の息子ヴァンサンには、極めて対照的な人物造形が施される。現代の都市生活に適応し、現実的に日々物事を片づけ子育てもこなすヴァレリーが、母親に対しては心の凍った非人間的な顔を覗かせる一方で、ヴァンサンは服役あがりで酒場でトラブルを起こす粗暴さもありながら、手際よく野良仕事をこなす自然との親和性の高さや、人間的に懐深い側面を覗かせる。

 こうしてごく身近な最少限の人物配置のうちに、現代を生き抜く個人の社会環境を象徴させることで、フランソワ・オゾンは主人公の立ち位置を精彩に描きだしてきた。ヴァレリーもヴァンサンも、この意味では主人公ミシェルの生きた時間と内面が揺らぎが生みだす各々の極なのだ。彼ら子ども世代ふたりの人物造形をめぐり、オゾン監督はこう語る。

 フランスの報道記事で、母親が娼婦だった子どもたちのルポタージュを読みました。子どもの反応は2つに分かれていました。ヴァレリーのような反抗態度と、実母を社会の犠牲者とみて慈しむヴァンサンの態度です。この作品で描きたかった人物はみなグレイであり、曖昧さの中に存在します。ヴァレリーも、ほんとうは母と宥和したいのです。一方ヴァンサンは、良いことをしようとしても裏目に出てしまう性質から逃れられない。この映画でヴァレリーは、何も悪いことをしていません。ヴァンサンが何をしたかも描かれていません。そこで試されるのは観客の倫理観だと私は思っています。 

 実母に対し冷淡なヴァレリーの態度にも理由はあり、そこはきちんと描かれてもいるのだが、その由来は根深く社会的差別感情とも結びつくからこそ、世間からはみ出し者扱いされるヴァンサンには通用しない。そのヴァンサンが前科者であるがゆえにこそミシェルに優しくなれるこの構図が、終盤で親友の葬儀で教会に駆けつけた元同僚たちへと向けたミシェルの放つ、寡黙で湿潤な視線により鮮やかに輪郭づけられる。映画序盤におけるマグダラのマリアをめぐる説教が、ここで利いてくる。

 ミシェルという人物は、都会で暮らした前半生で心乱される日々を送っていました。ようやくそこを乗り越え、田舎の生活と日曜日の教会から穏やかな安らぎを得る日々を迎えた。やはり教会で祈りを捧げるということは、自身の生涯と折り合いをつける準備をさせてくれるところもありますよね。そのミシェルにとってたったひとつ未だ心を不安にさせるのが、孫に会えないかもしれないという怯えでした。しかし実娘に起きたアクシデントゆえに、望む孫との生活も手に入る。ミシェルがアクシデントを欲望していたか否か、欲望していたとして現実にどう働いたかの判断は、観客のみなさんに委ねています。

 日本でも2000年作『焼け石に水』や2002年作『8人の女たち』のミニシアター公開で一躍著名な存在となったフランソワ・オゾンは、作品ごとに作風を大きく変えることでも知られる。これを可能とするのも、制作動機の奥底に幾つかの太い流れがつねに息づくからだ。それは人間賛歌であり、強い倫理感であり、また現代世界へ対する鋭い批評的視座でもある。本作をこうした観点から考えるとき、「罪と赦し」の基調テーマを、ブルゴーニュの芳醇な秋に暮れゆく自然描写が全編で覆うフランソワ・オゾンの演出は、コロナ禍を経て人間の身体性こそ再検証が待たれるこの人工知能化社会で今日、殊に象徴的であるように想われる。

(ライター 藤本徹)

『秋が来るとき』“Quand vient l’automne”
公式サイト:https://longride.jp/lineup/akikuru/
2025年5月30日(金)新宿ピカデリー、TOHOシネマズ シャンテほか全国公開。
配給:ロングライド、マーチ

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【映画評】 『アダムズ・アップル』 敬虔と罪の深淵 2019年11月21日

【本稿筆者によるフランソワ・オゾン監督過去作ポスト】

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