【映画評】 『アダムズ・アップル』 敬虔と罪の深淵 2019年11月21日

 ヨブ記を下敷きとするデンマーク映画『アダムズ・アップル』が全国公開中だ。前科者のネオナチ青年アダムが更生プログラム消化のため、反抗心も猛々しく乗り込んだ教会で待っていたのは常軌を逸した住人たち、という物語。なかでも教会牧師の敬虔かつ純朴すぎる狂気は怪物的で、「アダムの林檎」とヨブ記をめぐる社会通念の突き抜けた換骨奪胎ぶりが凄まじい。

 舞台はデンマークの片田舎フュン島の古い港町に建つ、北欧ルター派に典型的な木造主体の円形教会である。漆喰の白壁とそびえる尖塔は風格を感じさせるが、礼拝に訪れる地元信徒はごくわずかな高齢者に限られ、牧師はその過度に厳格な性格ゆえに数少ない信徒からも敬遠されている。減少した信徒の代わりに僻地教会の主要な礼拝参加者となっているのが、更生プログラム下にある信仰心のかけらもない犯罪者たちであり、テニス選手としての過去の栄光に執着し過食や盗み癖から抜けられないアル中患者や、人や動物の命を尊重しないパキスタン移民など一癖も二癖もある更生対象者たちを狂気で圧するかのように君臨するのが、北欧の至宝との称賛も名高いマッツ・ミケルセン扮する牧師イヴァンだ。

 2005年に撮られた『アダムズ・アップル』が、今年日本で公開へ至ったことはいくつかの点で興味深い。まず本作は、映画配給会社ではなく有志の集まりにより配給された。あまり知られない事実だが、海外で広範な動員を記録しながら国内へ出回らない作品は数多い。たとえ高い興行収入が見込めても、宗教や社会差別、移民や同性愛などLGBTsを主題とする名作の多くに対し国内の配給会社が二の足を踏むケースは後をたたない。表現の自由をめぐる紛糾事例が連続する昨今にあっても、そも上映にさえ至らない映画が人々の耳目を集めることはない。この点、人々の国際的流動化やネットの普及による市場構造の転換を受け、問題意識や動機付けの多様化した草の根レベルの映画配給が萌芽しつつあることは喜ばしい。

 また今日の欧州では製作困難と思われるほどの鋭さも見逃せず、登場するパキスタン人青年にこの点はよく象徴される。テロを企む彼の隠し持つ銃器は教会を襲うネオナチ集団に対し火を吹くのだが、シリア難民の流入により右傾化を加速させた今日のEU圏では為しがたいこの描写を完遂させた作品だからこそ、2019年のいま観られる価値は高い。監督アナス・トマス・イェンセンはその実、製作潮流として一世を風靡した「ドグマ95」を生んだラース・フォン・トリアーの直系に連なり、カール・ドライヤーからアキ・カウリスマキへ至る昏さと不条理に充ちた北欧映画の伝統を本作で見事に結晶させている。

 ブラックコメディとしてよく練られた全編においても、初めはワルがっていた主人公のネオナチ青年が、底の抜けた世界のリアルを生きる人々に触れることで本来の自制心をとり戻し、作中最も「マトモ」な人間として振る舞いだす過程は格別の皮肉に満ちとてもおかしい。思想信条や信仰を言い訳としつつも実態は卑俗な関係性から調達される承認ばかりを糧とする欲得づくの人間が大手を振るう現代であればこそ、個の内で徹底して信じ抜くことの意義は一層燦めく。

 本当のところ、罪とは何か。「林檎」がさまざまな形で象徴的に扱われ、サタンの気配や奇跡をも感覚させる場面の連続が描き出す罪の精髄は、実のところ牧師を殴る青年の拳にもネオナチ幹部を撃ち抜く殺意にも内在せず、教会の庭に植えられた林檎の樹の奥向こうに秘匿され、その気配のみがほのめかされる。見逃されがちな一幕ゆえあえて言及しておけば、前半で生理的欲求を牧師に否定され教会を去ろうとする老信徒は、収容所の生き残りであることが後の場面で明かされる。これにナチズムの北欧における侵襲性を考え合わせると、その暴力性に仮託した青年アダムの憤懣を、牧師イヴァンの突き抜けた信仰心が砕いた後に訪れる終幕の平穏は案外意味深い。抱腹絶倒かつ想像をはるかに超えた展開の果てに覗ける、この深淵に戦慄せよ。(ライター 藤本徹)

 全国順次公開中。

 

2005年製作/94分/PG12/デンマーク・ドイツ合作
原題:Adam’s Apples
配給:アダムズ・アップルLLP

©2005 M&M Adams Apples ApS.

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