【Web連載】ボンヘッファーの生涯(12) 神学の学徒は、今日何をなすべきか〈前編〉 福島慎太郎 2026年5月29日
「自分で考えろや!」
あるテーマで神学の議論をしている時、一人の青年が突然テーブルを叩きつけ、唾を飛ばしながら激昂した。「みんな牧師とか神学者の言葉を鵜呑みにするんじゃなくて、自分で考えろよ!」
でも後から友人が教えてくれたが、彼の熱く語り続けていた内容のほとんどは彼が通っている教会の牧師が普段から説いているものと同じだったそうだ。人間って難しい。
思った以上に人間は考えていない
「考える」という言葉を考える上で鍵となる概念に「集合表象」というものがある。これは社会学者エミール・デュルケーム(1858~1917年)が提唱したもので、例えば僕たちは「男/女らしさ」とか「愛国心がある」と言っても、「じゃあ出せ」と言われれば出せない。しかし「こういうものかな」という何となくのイメージもある。ざっくり言えば、そのような「共有された象徴・観念・分類」が「集合表象」だ。
厄介なのは、こうしたものが単なる「個人のイメージ」で終わらずに「普通はこうするよね」「そういうものだろ」と、いつの間にか人の行動を縛り始め、誰かに命令されたわけでもないのに、気づけばそのルールに従っている。デュルケームは、この個人の外側から働く見えない圧力を「社会的事実」と呼んだ。
他にも別の角度から、日本人の精神性を捉えるならば、山本七平『空気の研究』も面白い。例えば僕たちが「これだ!」と何か物事を決めるポイントについて、山本は「本当の決断の基本となっているのは、『空気が許さない』という空気的判断の基準である」と説明している。
要は思った以上に人間には決断力がなく、もっと言えば、自分の意思以外の要因で思考したり決断したりしていることが多い。そう思えば昨日までの僕たちもまた、さも自分の言葉だと思いつつ、実は誰かが良しとしそうな言葉をなぞっていただけかもしれない。
ドイツのキリスト教界を揺るがした二つの論争
「社会的事実」や「空気」という視点から見ると、ナチス期のキリスト教の動きにもまた別の見え方が出てくる。例えば、ドイツのキリスト教界で今も反省をふまえて語られ続けている二つの出来事について、ここでは一つを「ゴーガルテン問題」、もう一つを「シュミット問題」と呼ぼう。
一つ目の「ゴーガルテン問題」とは、神学者フリードリヒ・ゴーガルテン(1887~1967年)に由来する。稀代の神学者と呼び声高く、カール・バルト(1886~1968年)をもってして「今後は彼からわれわれが教わるのだ」と言わしめた人物だったが、1933年ごろからヒトラーを「民衆の救世主」と擁護したり、ドイツ的キリスト者運動(キリスト教信仰と民族主義を組み合わせたムーヴメント)を支持したことでキリスト教界において論争の的となった。
もう一つの方の「シュミット問題」とは、法学者カール・シュミット(1888~1985年)に由来する。こちらもまた著名な人物で、現在までの法哲学・政治哲学の分野に世界規模で多大な影響を及ぼしているが、一方で熱心なカトリックの信者でもあった彼は「政治」と「キリスト教」の関係について「近代の国家についての諸々の概念は、すべて世俗化された神学的な概念なのだ」と主張し、ナチス・ドイツの誕生を神学的に擁護した。
彼らをどう評価すべきか
その後、両者の歩みはかなり対照的なものとなった。
ゴーガルテンは1933年前後にはヒトラー政権や「ドイツ的キリスト者運動」を支持していたものの、1936年には距離を置く姿勢を示した。そして戦後は「近代」「世俗化」「権威」といったテーマへ関心を移し、社会や国家と信仰の関係を問い直していく。それは全面的な自己批判というよりは、「あの時代の判断」を修正していった人物と言えるかもしれない。
他方、シュミットは戦後にナチスへの協力責任を問われ、大学への復帰も許されなかった。しかし彼は自身の言説をほとんど訂正することなく、一貫して「政治とは味方と敵を決める営みだ」という基本的な発想(〝敵/味方〟の区別)や、「危機の時代には皆で話し合うこと以上に、誰かが秩序を回復する決断を下さなければならない」という考え方(決断主義=Dezisionismus)を主張し続けた。これらがナチスによる一連のユダヤ人迫害や国家の全体主義化について、神学や法学の観点から大きく肯定する論理になったものだ(彼自身それを企図していた部分もある)。
ただしシュミットの考えは、現代までの政治・法学を捉える上での重要な鍵ともなっており、まさしくここでは「優れた理論が危険な政治に利用された時、その理論そのものをどう評価すべきか」という読み手側のリテラシーが問われている。彼の思想の一端については「終わりの覚書Ⅱ」(末尾)にまとめている。
学問は時代を反映する
次回で「ナチスを支持する神学」とそのロジックについてより具体的に触れようと思っているが、ひとまず、ここで僕が伝えたかったことは「学問は時代の必要や価値観から思った以上に影響を受けている」ということだ。もちろん、神学や学問を「時代の空気に流されるだけのもの」と片づけたい訳ではない。
ただ同時に、それらは決して真空状態で行われるものではなく、「何を問題と感じるか」「何に危機感を覚えるか」という問いそのものを、時代や社会から受け取っていることも事実だ。その意味でデュルケームの言う「社会的事実」や、山本七平の言う「空気」は、結論だけでなく、そもそも何を問い、何を考えるかという「前提」や「背景」を把握する鍵となる。
ゴーガルテンやシュミットもまた、ある日突然あのような判断に辿り着いた訳ではなく、むしろ時代の危機や期待、そして空気を誰よりも真剣に受け止め、応答しようとした人たちだった。だからこそ、この問題を単純な「善悪」の話で終わらせるのではなく「なぜ彼らはそう考えたのか」、あるいは「彼らが何を見て、何を見えなくされていたのか」ともっと考えたいし、現代に生きる僕たちだからこそ、その営みを担えるのだろう。
神学の学徒は、今日何をなすべきか
「神学の学徒は、今日何をなすべきか」。これは1933年夏、ボンヘッファーが指導していたベルリン大学神学部の学生たちに宛てた手記のタイトルだ。ヒトラーが首相に就任して数ヶ月、如実に変化(ある意味で崩壊)するドイツを目の前に「この状況において神学の営みをどのような姿勢で進めるべきか」、あるいは「今日における神学の意味と意義は何か」という内容が記されている。
本文の内容だけを紹介しようかと思ったけど、それなら皆さんが実際に本を購入した方が早い。でも「この状況」や「今日における」という「時代背景」を理解したらボンヘッファーの真意も一層鮮明に伝わるのではないかと思い、今回は歴史や社会的な要因に焦点を当てて語った。
例えば本文中には、「彼は神学に対して冷淡になり、大勢の人々の言うことに合づちを打ったりしているが、そんなことで神学生でありうるなどということに、いつからなったのであろう」という言葉がある。内容からして現代にも適用できる厳しい指針ともとれるけど、同時にこれほどまでに解像度の高い批判は特定の誰か(対象)を想定していることも考えられる。僕の試みはこの「解像度を高めねばならなかった背景」の解像度を上げることだ。
本シリーズは「前編」「中編」「後編」の3回に分けるつもりで、徹底して時代と神学の〝裏側〟にフォーカスを当てる。あと末尾の「終わりの覚書」(コラム的な)もナチスやボンヘッファーと関連させて、僕たちが社会や歴史をどう捉えるべきか、あるいは個人として主体的に考える、生きるとは何かについて、シリーズと連動して書く予定だ。少々体力を使う内容かもしれないが、読んだ後、確実に咀嚼力と思考力が身につくことは約束させてほしい。それらも含めて引き続き読んでくれたらとっても嬉しいのだ。
【参考文献】
神学の学徒は、今日何をなすべきか〈前編〉“空気”に抗え!
・D.ボンヘッファー、村上伸訳『キリスト論』(新教出版社、1982年)
・宮台真司、奥野克巳『宮台式人類学─前提を遡る思考』(ちくま新書、2026年)
・大澤真幸『社会学史』(講談社現代新書、2019年)
・山本七平『「空気」の研究』(文春文庫、2018年)
・雨宮栄一『ドイツ教会闘争の史的背景』(日本キリスト教団出版局、2013年)
・岡崎祐貴「F・ゴーガルテンの神学的歴史理解における『世界』の位置」(「基督教研究」第80号収録、2018年)
・蔭山宏『カール・シュミット─ナチスと例外状況の政治学』(中公新書、2020年)
・K.シュミット、権左武志訳『政治的神学─主権論四章』(岩波文庫、2024年)
終わりの覚書Ⅰ─映画『ボンヘッファー』とその後①
・E.フロム、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、2011年)
終わりの覚書Ⅱ─カール・シュミットとは何者なのか①:見抜いていた人間の“浅さ”
・宮台、『宮台式人類学─前提を遡る思考』
・牧野雅彦『危機の政治学─カール・シュミット入門』(講談社選書メチエ、2018年)
・堀内進之介『善意という暴力』(幻冬舎、2019年)
終わりの覚書Ⅰ─映画『ボンヘッファー』とその後①
1.「あの映画、盛ってるらしい」
最近(北米や西欧ではもう少し前から)映画に対する批判が集まっている。それは「映画のボンヘッファーは過度に英雄像が演出されている」や「作品の中で脚色された部分がナショナリズムを煽っているのではないか」というもの。しかも口コミとかではなく、ボンヘッファーの親族や研究者たちが声を上げている。
その詳細については次回号で取り上げようと思うが、その前に、僕個人としては視聴者の〝反応の変化〟に注目している。よく聞くのは「最初は感動したけど、内容が盛っている〝らしい〟から見るのやめた」や「あの先生たちも指摘しているしそうなんだろう」など。
2.〝考える力〟の自信を失って
まぁ難しい話で、僕自身も「過度に暗殺計画を肯定したかのように受け取られやすい演出」を認めていて、だからこそ過去の連載や取材を受けた媒体で何度も「作品の良し悪しを超えて〝そうせざるを得なかった〟時代背景を感じる必要がある」と語った。というか末尾は必ずこれで〆た。
ただ実態として、この映画については「ボンヘッファーの心情が豊かに描かれている」と〝言われれば〟そう見えたり、反対に「過度な演出だ」と〝言われれば〟そう感じたりと、その反応は一人ひとり異なるかもしれないが、所々で自分自身がどう直観したか以上に「あの人が言ってるから」と、良くも悪くも他者の論評が自分の論評と直結してしまっているコメントを見かける。だけどそこで止まったらもったいなくないか?
少々長いが、精神分析を専門とするエーリヒ・フロム(1900~1980年)の『自由からの逃走』にこんな言葉がある。
「専門家」だけが、しかもかれの限られた領域においてだけ理解できるというようにみせかけることは、じっさいは――しばしばある意図をもって――本当に問題となっていることがらにたいする、自分の思考能力の自信を失わせることになる、個人は混沌とした多くのデーターにとりかこまれながら、無力をかこち、専門家がなにをなすべきか、どこへいくべきかをみつけだすまで、憐れな忍耐力でまちつづけている。このような影響は二重の結果をもっている。すなわち、一つは聞くこと読むことすべてにたいする懐疑主義とシニシズムであり、他は権威をもって話されることはなんでも子どものように信じてしまうことである。このシニシズムと単純さの結合は近代の個人にきわめて典型的なものである。
要約すると「〝専門家にしか理解できない〟と思わされると、人は自分で考える力への自信を失い、判断を権威に委ねるようになる。その結果、人は一方で何も信じない冷笑主義に陥り、他方で権威ある言葉を無批判に信じるようになる。こうした〝疑い深さ〟と〝従順さ〟の奇妙な同居が、近代人の特徴だ」と。
ちなみにこれもまた背景を理解する内容もより深まるが、フロムという人はユダヤ系ドイツ人で1934年にアメリカへ移住した経験を持つ。そして第二次世界大戦の只中、ナチズムの心理を研究した書物がこの『自由からの逃走』だった。つまりこのテキスト自体はナチス期のドイツ人の心理を入り口にしているのだが、はて、不思議と現代に当てはめても違和感がない。
3.僕たちはやめない!
フロムの言葉に照らし合わせるなら映画『ボンヘッファー』もまた、作品の是非と同時に、それを受け取る僕たちの姿勢はどうなのかということが問われているように思う。もうこれは映画とかボンヘッファーとか、そういう枠組みを超えたテーマになる。確かに良いか悪いか、正解か間違いかとすぐに判断したくなるのは僕も同じだ。中途半端に処理をすると不快感が残る。
だけど、フロムの主張に目を向けるなら、彼が問題にしたのは「自分の判断を放棄してしまうこと」だった。専門家の知見は大切だが、それを自分で考えるための材料ではなく、思考停止の代用品にしてしまうなら、そこには別の危険が生まれる。
「快/不快」を超えて「真理」や「普遍性」というものを求めるのであれば、むしろ疑問や違和感を入り口として継続的に考え続けることこそが理想だし、その先にこそ、僕たちが出会うべき知恵や知識が待っているだろう。そして映画とは、まさにそのトリガーとなる最適の媒介装置だと思う。考えることを、僕たちはやめない!
(つづく)
終わりの覚書Ⅱ─カール・シュミットとは何者なのか①:見抜いていた人間の〝浅さ〟
1.優れた知識の用い方
シュミットほど「優れた知識の用い方」で是非が別れる人物も珍しい。すべてを擁護するわけではないが、少なくとも彼が法学・政治学の領域において20世紀最高峰の論客の一人であることには間違いない。まず、シュミットの思想を理解するために必要な知識をぐるっと触れてみる。
2.〝成熟〟とはなにか
分類学(生物や事物を共通の特徴や進化の系統に基づいて体系的に整理する学問)では、人類の180万年につらなる歴史のほとんどが遊動生活で形成されており、定住社会が1万年前、文明的生活の広がりが4000〜5000年前であると考えられている。社会学者の宮台真司(1959年~)曰く、そこでは他の哺乳類と同じよう、ヒトにも定住化しないがゆえの「仲間意識」と「生存戦略」がゲノム(遺伝子集合)として刻まれており、これらに真っ向から反対するのが言語で定められたルールに損得で従う定住生活(ようは現代社会)だと言う。
「道徳性発達理論」という興味深いロジックがある。心理学者ローレンス・コールバーグ(1927~1987年)が提唱したものだが、彼によると、道徳性は子どもの時代から段階的に発達し、それらは三つのレベルと六つの段階に分けられると言う。その初期段階が「罰と服従への志向」(罰の有無が判断基準となり、権威に従うことを良しとする)で、成熟するにつれて最終的には「普遍的・倫理的原則への志向」(単なる法を超えた普遍的な倫理に基づく行動・他者への働きかけ)へと発達するという。
要するに、幼い段階では外側の罰や権威が判断基準になるが、成熟するにつれ、人はより普遍的な価値や他者との関係を考慮しながら行動するようになる、という話だ。
3.誰が本当の友か
実は、これらを統合するような話が新約聖書には記されている。それがルカ福音書に収録されている「善きサマリア人の物語」だ。道端で襲われてボロボロとなったユダヤ人のもとに最初、祭司(今でいう牧師!?)が通りかかったものの「ルールに従わなきゃ」と無視して過ぎ去った。しかしその後、被差別民であったサマリヤ人が民族も習慣も超えて駆け寄ってきてくれたことで一命を取り留める。
この物語はイエスの核心的な問いをもって閉じられている。それは「誰がこの人の隣人になったか?」、ようは誰が本当の友なのかということだ。ルールだからと損得で状況を判断する人間と、法の外に出てまで仲間を守ろうとする人間、僕たちはどちらといたいだろうか?
4.ルールが人間を助けるわけではない
分類学と照らし合わせて、もし宮台の言うように人間の深い部分に「仲間と共に生き延びる」感覚が刻まれているのだとしたら、成熟とは単にルールを守ることではなく、関係や共同性を自ら支える側へ移ることと言えるだろう。そして、それは最先端の思想というより、むしろ人間のもっとも古い営みへの回帰なのかもしれない。さて、僕たちは成熟しているだろうか?
そして、ここにシュミットの政治思想が不気味なほど接続してくる。実は「人間は法だけでは動かない」ということを彼は鋭く見抜いていた。「善きサマリア人の物語」が語る通り、どれほど立派な制度やルールが存在しても、前提としての「われわれは仲間だ」という感覚が失われていれば、法もただの文字列にすぎない。この点について、シュミットは政治の本質を「敵/味方」という概念で説明した。
(つづく)

福島慎太郎
ふくしま・しんたろう 名古屋緑福音教会ユースパスター。1997年生まれ、東京基督教大学大学院を卒業。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。2026年からはアジア・北米圏のアナバプテスト国際ネットワーク“Onesimus Reconciliation Kappa Delta“の理事に就任。連載「ボンヘッファーの生涯」(キリスト新聞社)を執筆中。













