【宗教リテラシー向上委員会】 「祝福」の意味──それでも「主がともにおられる」 與賀田光嗣 2026年4月1日

 勤務校はキリスト教主義学校のため、祝福式を行うことが多々ある。今年に入ってからは2回あった。一つは新講堂の起工式のためである。建設予定地を一周しながら詩編を唱えつつ、聖水を振りまいた。水を祝福し聖水となす時、「生ける水の泉であるキリスト」の祝福を求める。この土地、この建物が神に用いられるようにとの祈りがある。「父と子と聖霊のみ名によって」と口にしながら3度シャベルを盛り土に入れるのは一つの土着化、良く言えば文化内受肉かもしれない。ここでの趣旨の一つは土木従事者の安全である。

 もう一つは勤務校の野球部壮行式でのことだ。このコラムが発行されているころには試合が終わっているが、春の選抜、甲子園出場が決定した。部員一人ひとりに香炉を用いて、煙を振り祝福をした。キリストの香りを身にまとうことによって、一人ひとりが平等であることを示す水平の意味。煙が地から天に立ち上がるように、祈りが人と神をつなぐ垂直の意味。つまり香の煙には十字架の象徴的意味がある。

 どちらも神の祝福を求めるものだが、ここで考えたいのは祝福の意味である。祝福とは単なる幸せを求めるものなのだろうか。

 新約聖書の冒頭にて目に飛び込んでくる祝福のシーンの一つは、マリアの受胎告知である。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」。マリアはこの言葉を深く思い巡らした。天使はマリアに祝福を告げるのだが、これは分かりやすい意味での祝福ではなかった。マリアの生涯は苦難に満ちた生涯だった。夫以外の子を宿したことが発覚すると石打の刑で殺されてしまうかもしれない。婚約者のヨセフは悩み別れを決意する。婚約を解消すれば、マリアは殺されないからだ。しかし、ヨセフは「神の助けによって」、自分の子どもではないイエスを神から預かった命として育てることを決意する。「神がともにおられる」ことに支えられたヨセフの姿がある。

 だが、若い夫婦の苦難は続く。ヘロデの命令で嬰児が殺されることとなり、若い夫婦はエジプトへ逃れ、政治難民となった。自分たち親子のために、多くの子どもたちが殺されていく。

 マリアとヨセフの人生は、私たち人間の人生の縮図である。「なぜ自分だけがこんなにもつらい目にあうのか」、あるいは「なぜ自分だけがこんなにも恵まれていていいのか」。人生とは、常にこの二つの問いが投げかけられるものだ。

 だからこそ祝福とは、単に幸せを願うということだけではない。どんな人生においても神が常に「あなたとともにおられる」ことを、告げるということこそが祝福であるのだ。

 人間の一つの視点ではなく、マリアが、ヨセフが天使によって励まされたように、神から見た私たちの人生を告げるということだ。

 そんな人間の人生こそが、常に問いが投げかけられる人生こそが、それでも主がともにおられる。祝福は確かにあった。祝福された人生であった。そのことをマリアの人生は、受胎告知は示しているのだ。それは私たちが受け入れがたい様々な状況でも、それでも神はともにおられるということを示している。

 東日本大震災が起きた後、教会のボランティアで被災地の福島を訪れた。ある方が私に告げた言葉を鮮明に覚えている。「どうか『祝福』をしてほしい」

 あれから15年が経つ。被災地の人々には一人ひとりの名前とそれぞれの人生がある。勤務校の新講堂に集まる生徒、保護者、教職員にはそれぞれの人生がある。甲子園を終えた球児たちにもそれぞれの人生がある。どんな人生においても神が「あなたとともにおられる」ということ、そして「私たちはともにいる」ということ、「祝福」の意味を深く思い巡らしたい。

*2017年から継続してきた本連載は今回で最終回となります。ご愛読いただきありがとうございました。

與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
 よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。

Image by radek drbohlav from Pixabay

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