口語訳聖書70年で鈴木結生氏ら記念講演 「戦後日本に開かれた新たな地平」 2026年5月21日

 口語訳聖書刊行70周年を記念した講演会「口語訳聖書がひらいた地平――ことば・文学・信仰をめぐって」が5月9日、青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂(東京都渋谷区)で開かれた(日本聖書協会主催)。芥川賞作家や聖書学者、日本語学者らが登壇し、口語訳聖書が日本の文学、信仰、日本語表現に与えた影響を多角的に論じた。

 第一部では、『ゲーテはすべてを言った』で第172回芥川賞を受賞した鈴木結生(ゆうい)氏が「世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」と題して講演。自身が「新共同訳世代」であることを明かしつつ、幼少期から聖書を「肌を通して吸収してきた」と振り返った。

 牧師家庭に育った鈴木氏は、福島県の教会で過ごした幼少期を回想。教会学校では、出エジプト記の「マナ」を再現した食べ物を実際に食べたり、ヨナ書を体感するため巨大な袋の中で祈ったりするなど、身体感覚を伴う聖書教育が行われていたという。

 また、漫画『ONE PIECE』や『白鯨』、『ピノキオ』など、世界文学や大衆文化の中に聖書的モチーフが浸透していることにも触れ、「好きな作品の細部に聖書が染み込んでいることが、聖書を読むモチベーションになった」と語った。

 自身の名「結生」は新共同訳聖書のローマ書6章11節「キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きている」に由来しているが、口語訳では「結ぶ」「生きる」という表現が現れないため、「口語訳だと私は存在しない」と語りつつ、後に口語訳のイザヤ書32章17節「正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である」に出会い、「どんな聖書にも自分は存在できた」と思い直すに至ったという逸話を紹介した。

 続く対談では、ドイツ文学者で早稲田大学教授の松永美穂氏が登壇し、聖書翻訳が各国語形成に与えた影響について語り合った。松永氏は、宗教改革期のルター訳聖書が統一ドイツ語形成に果たした役割を紹介し、「ドイツ文学はキリスト教から出発している」と指摘。鈴木氏も、英語圏におけるティンダル訳聖書に触れ、「各国語において聖書翻訳は、その言語の〝重心〟になる」と述べた。

 また、鈴木氏の最新作『猫にバイブル』についても話題が及んだ。同作は、架空の作家が聖書の余白に物語を書き込んでいくという構成を持ち、「もし聖書に猫が登場したら」という発想から生まれた作品。聖書に猫がほとんど登場しない理由を調べる中で、古代エジプトにおける猫の神聖視に着目したと鈴木氏。「もし猫を聖書世界に登場させるなら、エジプトに関する記述から入るのが自然だと思った」と語り、創世記から出エジプト記に至るまで、聖書中の「エジプト」に関する箇所を徹底的に読み込んだことを明かした。

 第二部では、吉田新氏(聖書学者、東北学院大学教授)が「口語訳聖書と戦後日本のキリスト教」と題して講演した。

 吉田氏は、終戦直後の日本でキリスト教と聖書が急速に広がった歴史を紹介。空襲被害で出版能力を失った日本聖書協会に対し、米国聖書協会が印刷支援を行い、「聖書一千万冊頒布運動」が展開された結果、1945年に年間23冊だった頒布数は、50年代には年間300万冊規模へ急増したという。同時に、日本基督教団の受洗者数も年間1万人規模に達し、戦後日本では「新しい読者」に向けた新しい翻訳が求められていたと説明した。

 当初、日本聖書協会は大正改訳を現代かなづかいへ改める程度の改訂を想定していた。しかし1951年、「単なる改訳ではなく、全面的な現代語訳を行う」方針へ転換。これが口語訳聖書誕生の出発点となった。

 新約聖書の翻訳は、わずか3人の訳者による専従体制で進められた。訳者たちは大学などの職を辞し、翻訳室に集まって集中的に作業を行ったという。吉田氏は「現在では考えられないほどの密度だった」と振り返り、新約聖書が約2年半という異例の短期間で完成した背景を解説した。

 続く近藤泰弘氏(日本語学者、青山学院大学名誉教授)による講演の主題は「日本語史からみた聖書の日本語訳」。近藤氏は、日本語訳聖書の歴史が16世紀キリシタン時代にまで遡ることを紹介。「天にまします我らの父よ」といった今日も親しまれる祈祷文の原型が、すでに当時の翻訳で形づくられていたと述べた。

 その上で、日本語訳聖書では「御名」「御国」など、神への敬意を示す古典的敬語表現が重要な役割を果たしてきたと指摘。原典のギリシア語やヘブライ語には敬語が存在しない一方、日本語では敬語なしに神を語ることが難しかったと説明し、口語訳聖書の特徴として、「あがめられますように」といった丁寧語表現の導入を挙げ、「口語訳の本質は、現代日本語の中で神との距離感を再構成したことにある」と語った。

 1955年刊行の口語訳聖書が切り開いた「文語体から口語体へ」「日本人翻訳者の主導」「最新研究の反映」という三つの地平は、その後の新共同訳や聖書協会共同訳へと脈々と受け継がれていく。今回の講演会では、口語訳が果たした役割は単なる「読みやすい現代語訳」の誕生ではなく、戦後日本において聖書を「難解な古典」から「自分の言葉として読む書物」へ変えた点にこそあることが繰り返し確認された。

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