【映画評】 さまよえるとき 『彷徨える河』 Ministry 2016年秋・第31号
熱帯の密林へカヌーでわけ入る体験は、言い知れない異様さを孕む。深い濃緑の闇と、四方から耳朶へと響き入る動物や虫の声。遠くの雷鳴や、割れる樹木の轟き、河面に映える夕陽の赫灼。あるいは宵闇、蛍の光の群れにより浮かびあがる巨樹の姿影。そこでは日常脳裡を占める一切の理性が通じず、この身心は別世界を浮遊し反映する鏡面のようなものになる。人間社会が要請する関係性の編み目からの遊離と、異なる環境世界への遷移。
幻の聖植物ヤクルナを求め、時代を隔てた二組の男達がアマゾンを遡行する。一組は重い病に冒された民族学者と先住民シャーマンの“若き”カラマカテ、もう一組は探究心に駆られた植物学者と“老いた”カラマカテ。映画『彷徨える河』は、混沌と狂気に満ちて互いに交錯し、時に重なり混じり合いつつアマゾン源流域の秘境へ到達する、二つの旅を描く怪作だ。そうして密林を見下ろす高地の秘境にそびえる世界樹の麓には、聖植物ヤクルナが白い花を咲かせているのだが。
本作は、実在した20世紀初頭のドイツ人民族学者テオドール・コッホ=グリューンベルクと、20世紀中盤のアメリカ人植物学者リチャード・E・シュルテスが各々に残した日記を元とする。モノクロームの美しさ際立つこの作品、監督はコロンビア映画界の俊英シーロ・ゲーラ。現実にオカイナ族最後の一人となったアントニオ・B・サルバドールが、老いたカラマカテを演じる。
何らかの使命を帯びた主人公が、大河の遡上により現代文明とは異なる世界の濃密さへと身を浸す。この筋立てからは、ヴェトナム戦争下のメコン河を遡るフランシス・フォード・コッポラ『地獄の黙示録』や、その原作でコンゴ河が舞台のジョゼフ・コンラッドによる小説『闇の奥』、アマゾン河を遡上するヴェルナー・ヘルツォーク『フィツカラルド』等が想起される。これら傑作群にも匹敵する表現性を具えた本作が、と同時にこれらと鋭く方向性を異にするのは、滅びゆく先住民族のシャーマン視点から描かれている点だ。
「僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり」 知里幸惠 『アイヌ神謡集序』
キューバ危機やヴェトナム戦争を経た冷戦構造下の世界思潮は、ポストコロニアリズムからマルチカルチュラリズムへと展開した。文学や映画など芸術分野もこの流れに並走したが、そこで貫徹されたのは皮肉にも偽の多元主義、つまりは徹底した白人視点による論理内での相対主義に過ぎなかった。政治経済の場面でもこのロジカルタイプは発揮され、何であれグローバル市場に乗る商品こそが是とされる仮初めの公平性に基づいた自由市場経済の抑圧が、いったんは世界を覆うかに見えた。しかし現に相次ぐ民族紛争やIslamic Stateの台頭、直近の英国EU離脱を問うBrexit国民投票やゲリラ組織との和平合意を問うコロンビア国民投票の帰結は、その一つ一つがすでにして、《国家と国民》概念を重要な結節項とする思潮が妥当性を欠き始めたことの証左となるだろう。ここでは時間が逐次素材化され歴史化されて不可逆的に、一方向へのみ展開する。反動は復古や回帰とはすでになり得ず、回帰“のようなもの”としてただ断片のみが螺階を駆けあがる。
『彷徨える河』においては、登場する「原住民」のみでなく白人探検者の側すらもが、アマゾンとの対峙をもはや意図しない。同族が死滅したシャーマンの男カラマカテは使命感を喪失し、森奥で孤独に試練の日々を送る。民族学者は重篤な病からの解放を夢見、植物学者は隠された目的に執着し続ける。アマゾン遡行の途上では、原住民子族のキリスト教化を目論む狂信的な神父に追われ、文明の流入により堕落した在来の部族集落を訪れる。また我こそはキリストとのたまうカリスマ的白人に率いられたカルトの破滅をカラマカテは目撃する。
「日並の皇子の命の馬並めてみ狩立たしし時は来向ふ」 万葉四十五
人間社会とその最上位の暴力集団たる《国家》による自然の克服・支配も、《国民》の育成・馴致もあらかじめ不可能と目される終末世界。時間が太古より具える円環性を最終的に喪失したその場で描かれるのは、今日の社会が必然的に具える強い方向性、どのような異世界をも呑み込んで存在の魂魄を環境世界から引き剥がし、個々人を精神の孤立へと追い込む現代文明の強烈な欲望だ。個と共同体とを囲う自然への信仰から己を解放する営みが、個我への執着にしか帰結しないという悪夢。そこでひとは生の意味を、つねに未来へと疎外させてゆくだけの時間を生きることになる。しかし敢えて言うならば、この時代の自由はそのようにして生じ得る。このわたしの自由は疎外の先にある。
(ライター 藤本徹)
『彷徨える河』 “El abrazo de la serpiente” コロンビア・ベネズエラ・アルゼンチン
2016年10月29日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開。
公式サイト:http://www.samayoerukawa.com/
2023年4月現在動画サイトU-NEXTにて配信中
*本稿は「Ministry」2016年秋・第31号の掲載記事へ加筆したものです。
【関連過去記事】
【映画評】 子どもの宇宙とこの自由 『MONOS 猿と呼ばれし者たち』『グレタ ひとりぼっちの挑戦』『リトル・ガール』『スウィート・シング』 2021年10月28日
【本稿筆者による言及作品関連ツイート】
大河の遡上により異世界の濃密さへ身を浸す構成からはコンゴ河舞台のコンラッド『闇の奥』、メコン河のコッポラ『地獄の黙示録』、アマゾンを遡るヘルツォーク『フィツカラルド』等が想起されるが、本作『彷徨える河』がこれらと対照的なのは、滅びゆく先住民族のシャーマン視点から描かれている点だ。 pic.twitter.com/eKdF9AvNSB
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“あの眼差しの意味はよくわかる。彼には蝋燭の炎が見えなかったが、その眼は宇宙全体が見えるほど大きく見開かれ、闇の中のすべての心臓を見通せるほど鋭かった。彼はいっさいをまとめあげ――審判を下した。「恐ろしい!」と。” コンラッド『闇の奥』“Heart Of Darkness” 1899pic.twitter.com/LOC9rjCubT
— pherim (@pherim) April 4, 2020
コッポラ『地獄の黙示録』原作のコンラッド『闇の奥』はコンゴ河を海から遡るけれど、“Downstream to Kinshasa”は上流から逆を辿る。
前ツイ“六日間戦争”とは、ウガンダ軍とルワンダ軍が両国から500km離れたキサンガニで起こした2000年の衝突。この規模感は知らなかったな。https://t.co/Uyr4lXdlM9 pic.twitter.com/lJgIVUvp5d
— pherim (@pherim) April 17, 2022
『コンゴ川 闇の向こうに』
ザイール消滅後の情勢不安定なコンゴ流域を遡る、コンラッド『闇の奥』を地で行く試み。遡るごと変容を遂げる人々の風貌、河面と風景。語られるレオポルド2世や指導者ルムンバの記憶、独裁者モブツが残した王宮廃墟や大鉄塔の空虚。源流へ至ったカメラが映す無時間の閾。 pic.twitter.com/TO9wjIRNw2— pherim (@pherim) October 14, 2017
『セノーテ』
観客席の昏がりから、縦へと潜りゆく体験。降り注ぐ水流が湖面を割る破裂音、青の湖底に煙る白光が震わせる影。
粗く映りでる顔たちの温もりに、訪のう人としてそこに立ち、底へ沈む小田香の異彩までも幻視される。湖底へ覗く濃藍の回廊、闇の奥。沈黙の中に生きる神を彼らは知らない。 pic.twitter.com/MVvBuuQ31P
— pherim (@pherim) October 23, 2020
『カナルタ 螺旋状の夢』
“よく眠り、夢を見て、真の意味で自分が何ものかを知るべき時、シュアール族の人々はカナルタという”
ピダハンやイゾラドを映すそれとは似て非なる本作に際立つ目線の近しさ、飾りのなさ。
蟻が治してくれると蟻塚に手を突っ込む男ツァマラインの明晰な誘導に時を忘れる。 pic.twitter.com/spNVSxgydh
— pherim (@pherim) October 2, 2021
『森のムラブリ』🇹🇭🇱🇦
互いに敵愾心さえ宿してきたタイ~ラオス森奥の狩猟採集民3集団を、若い言語学者が結びつける道行き映す金子遊監督作。
その楕円的二重焦点が孕む、単なる人類学的映像資料の連なりや学問/ドキュメンタリーの矩さえ超えゆく身振りの豊穣と抜けの良さ、これは予想できなかった。 https://t.co/HHalkCqUuB pic.twitter.com/3OtWn9BRCJ
— pherim (@pherim) April 5, 2022
『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』
凄絶孤高のヴェルナー・ヘルツォーク監督作。
あの天才夭折作家の最期へ寄り添う盟友だったこの巨匠が掘り下げる、主著パタゴニア&ソングラインへの澄み切った読みの深度に励まされる。
人生の確度は自力で決める。
岩波ホール最終上映作、震撼。 https://t.co/QPZlzHvqNO pic.twitter.com/rfPO8bM5JS— pherim (@pherim) June 3, 2022