【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(19) 語る者は聞く者であれ 福島慎太郎 2024年10月14日
「福島君のお話を聞かせてください」。学生のころに牧師から呼び出された。ちょうど進路について悩んでいる時だったので1時間ほど話し合いの場を設けてもらい、さまざまなことを分かち合おうとした。しかし僕が口を開くたびに、その牧師は「あー、それはね」「僕の時代はさ」「わかるよそれ」と結果的に50分間ぐらい彼が一方的に話していた。
この時に僕は決心した。「ぜってーこんな牧師にならねぇ」と。
教会の内外問わず、クリスチャンはあれこれと誰かに仕えるのが美徳であると考えがちだ。それ自体、間違っていないと思う。しかし「仕える」の意味をはき違えると、途端に僕たちはおせっかいな存在となってしまう。
ここでボンヘッファーの言葉に耳を傾けたい。彼は「仕える」ことで一番大切な働きを挙げている。
交わりの中で、一人の人が他の人に対して負っている第一の奉仕は、他の人の言葉に耳を傾けるということである。
「奉仕」といえばあくせくと働いたり、聖書の言葉を語ったり、悩む人にアドバイスする姿を想像しやすい。しかし、それが「誰のためであるか」ということを意識しなければならない。
もし「隣人」のための働きであれば、重要なのは奉仕する側の達成感ではなく、奉仕される側のリアルな姿を汲み取ることだ。そのためにはまず「神への愛が、神の言葉を聞くことによって始まるように、兄弟への愛は、兄弟の言葉を聞くということを学ぶことによって始まる」と覚える必要があるだろう。
僕が牧会している教会では、毎週末にユースを対象に最低6時間以上の面談の場を設けている。といってもギターを弾きながら、ご飯を食べながらと非常にラフな形だ。そして、いつもここで僕は無力さを覚える。
多様化する社会において、自分の存在の不安定さを肌身で感じている学生たち。「自分を信じて」と声をかけようとしても滝のように流れてくるSNSの情報に、何を信じればよいか分からなくなる現実。自分が20代といえども社会と若者たちの目まぐるしい変化にはついていけない。
一人の高校生と話していた時だった。彼もまた自分の生き方について悩んでいた。最初は投げかけられる質問に最適な答えは何かと捻り出していたが、ひと言やふた言で悩みが解決するほど人生は甘くない。「うーん……」と彼は黙り込み、しばらく沈黙の時間が流れた。
「牧師と言っておきながら、こんな時に何もできないなんて失格だな」と心の中で嘆いていた。しかしその時にふと、エマオの途上の弟子たちを思い出した。
ルカ福音書24章にあるこの物語は、復活のイエスが信じられないと失望し、60スタディオン(約11キロ)も歩いてエルサレムを離れようとしていた弟子たちの姿から始まる。そこにイエスが自ら訪ね、「それはどんなことですか?」と耳を傾けながら歩幅を同じくして歩いた。悩める弟子たちを前に、彼はまず同じ目線と歩幅で歩き、その人から出てくる言葉を待っていたのである。
おそらくここで「あなたたちは弟子でしょ? なぜ復活を信じてないのですか?」と正論をかざしたり「イエスは3日後に復活すると聖書のここに書いていますよ」と教えを講じても、彼らは信じられなかっただろう。この物語が語っているのは、僕たちの人生の悩める時に必要なのは正解でも正論でもなく「同伴者」ということなのだ。
今、僕は彼の目の前に立って偉そうに何かを説こうとしていないだろうか、もしここにイエスがいたら隣でどこまでも一緒の景色を見て、歩いて、耳を傾けるのではないか。ふっと深呼吸をして「どんだけ口悪くなってもいいから抱えてる思い全部吐き出してみてくれへん?」と言った。すると彼は「いいんですか?」と少し目の色が明るくなり、幼少期のことから今の苦悩まで打ち明けてくれた。
最初は恥ずかしそうな様子だったが、「何言ってもいいよ」「逆に言いたくないことは秘めてて大丈夫よ」と声をかけ、とにかく聴くことに集中した。すると彼は徐々に心を開いてくれて、最後は滝のように言葉があふれ出ていた。その時間は一緒に泣いて、うなずいて、さまざまな思いを抱えてここまで生きてくれていたのだなと、僕は心を打たれていた。気づけば朝4時。目の前のコーラの炭酸はすっかり抜けていた。最後に「こんなに自分のこと話したの初めてだった」と、彼は笑顔で言ってくれた。
現代社会はとにかく自分の言葉や思いをさらけ出しにくい。場面ごとに求められるキャラクターや周囲が期待する理想のレールからはみ出した途端、後ろ指をさされるのではとびくびくしているし、「誰かに弱さを吐き出す」ありのままの姿になる瞬間がほとんど許されていない。しかしイエスこそ僕たちの弱さの真ん中にこそいて、あなたの抱える苦悩をともに背負おうと今日も歩幅を合わせようとする。そしてその架け橋となるのがまさに「聴く」という働きなのだ。
ボンヘッファーは、特に牧師に向けて辛辣な言葉も残している。
キリスト者、特に説教者は、他の人たちと共にいる時に、常に、何かを「提供」しなければならないと考えがちである。彼らは、「語る」ことよりも、「聞く」ことのほうが、より大きな奉仕であるということを忘れてしまっているのである。
これは「キリスト者は、聞かなければならない時にも、語ってしまう」ことへの警告である。この言葉には「聴く」ことを「神が人間に委託した最も大きな奉仕」と強調するボンヘッファーの牧会論が際立っている。
教会の内外を問わず、今あなたの目の前で助けを必要としている人はいないだろうか。そしてその人を見て、あなたは「何も手を差し伸べられない……」とその場から離れようとしていないか。しかし、立ち止まってほしい。あなたが耳を傾けること、あなたがそこにいることだけで救われる魂がある。
反対に「私が何とかしなければ!」と奮闘している人、別の意味で少し立ち止まってほしい。あなたが神から与えられた最大の奉仕は、アドバイスをすることでも聖書を開くことでもなく、まず「聴く」ことである。これは世話焼きを批判しているのではなく、すべての営みには順序があるということだ。そしてイエスは隣人が困難に陥っているときにこそ耳を傾けた。
何より大切なのは、僕たちがいる場所には、キリストもそこにいるということである。目には見えない。しかし僕たちの声にならない声を聞き、あふれ出す涙を拭おうとしている存在がいるのだ。
今からでも遅くない。あなただからこそ神が与えた働きがある。一緒に今日も誰かの隣に立とう。
引用:D.ボンヘッファー、森野善右衛門訳『共に生きる生活』(新教出版社、2014年)
*日本語訳の「聞く」という引用について、ボンヘッファーの「主体的に耳を傾ける(≠人の声が自然と聞こえてくる)」という意図を尊重し、本文では「聴く」と言い換えています。
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。
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