【この世界の片隅から】 中国のZ世代の求め 遠山 潔 2026年7月21日

生成AIやデジタル化の急速な進化は、社会の至る要素を激変させている。我々の暮らしの利便性は高まるばかりであるが、一方で、人間関係を希薄化させるような、深刻な課題も浮き彫りになりつつあるようだ。今年5月に上梓された中島恵氏の『中国人は日本で何をしているのか』(日経プレミアシリーズ)において興味深い現況が報告されている。デジタル世界の利便性は国境を越えて影響を及ぼしているという。SNSなどの発展によって、もはや日本にいながら「中国にいるような感覚」での生活が可能となり(144頁)、それに伴うさまざまな複雑な状況が大きな社会現象として、今、起こっているとのことである。明らかに社会が大きく変化している。しかも、想像以上の速度で。
こうした社会変化は中国の教会の中でも確認されるようになってきた。特にZ世代の若者たちに関してその憂いが顕著になりつつある。
コロナ禍前まではZ世代の若者たちが中国の都市部の家庭教会に殺到していた。大学内でも積極的な――水面下ではあるものの――伝道活動が繰り広げられていたためか、大学近くの家庭教会では毎週のように新来者がいた。そこはいつも活気にあふれ、エネルギッシュな礼拝がささげられていた。しかし、それが今はどうだろうか。真逆である。「若者はもうほとんどいないですね」。某家庭教会の牧師がつぶやいてくれた。「コロナ禍を境に、特に若い人たちが教会に来なくなりました。おそらくオンライン配信が一つの要因だと思います」。その牧師は、ため息交じりにそう語ってくれた。
オンラインでの礼拝配信がコロナ禍を機に急増した。外出禁止や自粛が求められていた時は、それが教会員の霊的養いの一助となった。しかし、コロナ禍収束後の今もなお、その「オンライン化」「デジタル化」は依然として浸透し続けている。さらに追い打ちをかけるように「規制の厳格化」が押し寄せてきた。こうしたことが、さまざまなことに敏感なZ世代を教会に近寄らせなくなったという。

教会で奉仕する青年(写真 by A.Z.)
しかし、問題はどうやらそれだけではなさそうである。Z世代が直面している問題や抱えている将来への不安は想像を絶するものがある。情報の氾濫や競争社会に伴う「世俗化」と「現実生活の圧力」が、リアルな問題として彼らに重くのしかかってくる。そして遺憾なことに、教会側がそうした彼らの葛藤と不安に対して、「想像力」と「思いやり」をもって接することができず、その結果、若者たちの足が教会から遠のいてしまったのだ。先ほどの牧師はそう分析する。「もっと彼らの声に耳を傾けるべきだったと思います。今からでもやり直せるのであればやり直したいです」。悲痛なこの声を、もはや他人事とは思えないと感じた。
「でも、その中でも不思議なことが最近起こっているのです」。この牧師はそう続けた。「若い人たちの中にも、他の人との交流を求めて教会に来る人が、ごく少数ではあるけれどもいるのです。彼らは積極的に教会で奉仕をしたがっています。まるで、人とのリアルな関係を求めているようです。デジタル世界では味わえない、身体性とでもいうような感覚を享受したがっているようなのです」。これは北米の華人教会の牧師をしている王志勇が、再三再四述べている点でもある。「真の幸福とは孤独の楽しみではなく、会衆としての楽しみである。幸福な人生とは独り沈思に耽ることにあるのではなく、意気投合した朋との間にある」(『文明論基督教』(主流出版・台北、2017年、341頁)
こうした若者たちはある意味、デジタルデトックス(解毒)のような感覚で教会に来ているようである。自らの居場所を見出すためにと言ってもよいであろうか。自らの命の確かさを静かに確認しているかのように、キッチンで食事の準備をしたり、教会の掃除を率先して行ったりと、自分から積極的に喜んで奉仕している。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1=新共同訳)。詩編のこの言葉を彷彿させた。孤独感と将来に対する悲壮感を抱いているかもしれないZ世代の若者たちが、再び自分たちの居場所として、この信仰共同体につながることを切に願う。と同時に、おそらくこれは中国の教会の課題だけではないと認識しつつ、我々も自分事として受け止め、そこに目を留めねばならないのではないかと思わされるのである。デジタル世代への伝道は、むしろアナログ世代の方が用いられるのかもしれないと思ったのである。
遠山 潔
とおやま・きよし 1974年千葉県生まれ。中国での教会の発展と変遷に興味を持ち、約20年が経過。この間、さまざまな形で中国大陸事情についての研究に携わる。国内外で神学及び中国哲学を学び修士号を取得。現在博士課程在籍中。















