フェリス女学院150年の歩みを再検証 年史完結記念シンポで教育と宣教の歴史を振り返る 2026年10月19日

『フェリス女学院150年史』の刊行記念シンポジウムが10月10日、横浜市のフェリス女学院150周年記念館で開かれた。2022年刊行の上巻に続き、2025年に下巻が完成したことで、学院の歩みをまとめた年史が完結した。シンポジウムには上下巻の執筆者5人が登壇し、編纂の方針や新資料から明らかになった事実、戦前・戦後の教育制度の変化、外国ミッションとの関係などについて講演した。
第一部では、まず小檜山ルイ氏(フェリス女学院大学長)が「第一部執筆の方針および特徴」と題し、上巻の執筆方針と、その過程で見えてきた課題を語った。今回の年史では、比較文化論的な視座を取り入れ、個人の生活史を重視し、新資料を発掘して記述に反映させた。特に重視したのは、フェミニズムの標語でもある「個人的なことは政治的なこと(personal is political)」という視点である。結婚や出産など、従来の学校史では周辺的な情報として扱われがちだった個人の経験も、女性たちの生き方や教育の歴史を理解する上で欠かせない要素と捉えた。
こうした方針で史料を読み直した結果、半世紀前に刊行された『フェリス女学院100年史』とは時代区分が異なるものになったという。史実そのものだけでなく、それをどのように区切り、解釈するかによって、学校の歴史像は変わる。小檜山氏は、記述の根拠を研究者が検証できるよう、注をできるだけ丁寧に付したことにも言及した。

小檜山ルイ氏(フェリス女学院大学長)
続いて中島耕二氏(フェリス女学院歴史資料館研究員)が「フェリス、内から外へ」と題して講演した。2013年に編集委員となった中島氏は、それ以前に『明治学院150年史』の編集委員長を務めている。
自校史には、出来事を編年体で記録し、自校の歩みを礼賛するものも少なくない。しかし今回の編纂では、後世の批判にも耐えられる実証的な記述を志向した。一方で、学術的な厳密さを追求するだけでは、学校で学ぶ生徒や学生の姿が見えにくくなり、校風のようなものを捉え損ねるのではないかという懸念があったという。編纂委員会が定めた方針は、学術的価値だけに縛られず、自由に記述する余地を執筆者に与えた。
中島氏はまた、文部省訓令第12号がフェリスに及ぼした影響と、岩佐琢蔵教頭の役割を取り上げた。同訓令は、官立・公立学校と、学科課程について法令の規定がある学校に対し、課程外を含め宗教教育や宗教儀式を禁じたものである。女子学校への影響は限定的だったとされるが、フェリスにとっては大きな影響をもたらしたという。さらに、従来の60年史や100年史ではほとんど言及されてこなかった岩佐氏について、教頭就任後の学院の発展を理解する上で重要な人物として位置づけた。従来の学校史で何が記され、何が記されなかったのかも、今回の編纂では検証の対象となった。

中島耕二氏(フェリス女学院歴史資料館研究員)
休憩を挟んだ第二部では、下巻の執筆者が戦前から戦後にかけての学院の変化を取り上げた。
井上惠美子氏(フェリス女学院大学名誉教授)は「戦前から戦後への転換――学び続けたフェリス生たちと、専門学校・短大・四大への発展」と題し、教育制度が大きく変わる時代を生きた生徒・学生たちに焦点を当てた。学校制度の移行は、制度や組織の名称が変わるだけの出来事ではない。その時々の生徒・学生たちは、どのような環境で学び、どのような進路を選んだのか。井上氏は具体的な事例を挙げながら、制度の変化を一人ひとりの学びの経験に引き寄せて説明した。

井上惠美子氏(フェリス女学院大学名誉教授)
定員、受験者数、入学者数をまとめた資料からは、戦後、フェリスが大きく発展していった様子が読み取れる。その成長を支えるには校地の確保が不可欠だった。当時の理事会記録には、校地をめぐる議論が繰り返し登場する。教育の拡充は理念だけで実現するものではなく、施設や財政、運営上の判断に支えられていたことがわかる。井上氏は、学校の発展を数字で示すだけでなく、その背後にある経営上の課題も史料を基に説明した。
武尾和彦氏(フェリス女学院中学校・高等学校元教諭)は「新制高等学校最初期のカリキュラムとその実際の運用について」と題し、戦後の教育改革期における授業の実態を検証した。カリキュラムだけでなく、学籍簿、卒業生から寄贈された通信簿、指導要録などを照合し、生徒たちが学年ごとにどんな科目を履修していたのかを明らかにした。
そこで見えてきたのは、指導要録に記載された内容と、実際の履修状況が必ずしも一致していないという点である。制度上の記録を読むだけでは、教室で行われていた教育の実態を十分に捉えられない。複数の史料を突き合わせる作業によって、制度と現場の間にあったずれが浮かび上がった。武尾氏は、こうした研究には2020年に開設されたフェリス女学院歴史資料館の協力が欠かせなかったと述べた。
第二部の最後に、秋岡陽氏(フェリス女学院学院長)が「MissionからPartnershipへ――戦後のフェリス女学院とRCA、その『支援』の変容」と題して講演した。学院とアメリカ改革派教会(RCA)との関係を、宣教師の派遣や財政援助の変化だけでなく、学校の運営主体と自立のあり方として捉え直した。
戦前、RCAは宣教師派遣、財政援助、法人運営を通してフェリス女学院に直接関与していた。しかし1939年、RCAによるミッション経営から、日本人を含む理事会が運営する財団法人へと移行した。学院は「ミッションの学校」から「日本の学校」へと転換したのである。
戦後には、自立を進めながら援助も受ける時期が続いた。1951年の学校法人化を経て、1960年以降、RCAからの援助は従来の経常費補助から臨時支出への補助へと変化していった。そうして支援の規模や方法が変わるにつれ、学院とRCAとの関係そのものも再編されていった。
秋岡氏は、この変化を、戦前の「ミッション主導(mission)」、戦後の「協力関係(cooperation)」、そして現在の「自立して共に働く関係(partnership)」という流れで整理した。ここで重要なのは、戦後における変化を、単に「RCAからの支援がなくなった」と理解しないことである。支援する側とされる側の関係が変わり、両者がそれぞれの主体性を持ちながら協働する関係へと移ってきたということである。
キリスト教主義学校の歴史を考える時、宣教の理念と学校経営の摩擦は避けて通れない問題である。フェリスの歩みは、外国の教会による支援を受けて始まった学校が、時代の変化のなかで運営の主体を移しながら、キリスト教教育の伝統をどのように継承してきたかを示している。秋岡氏は、外部のミッションとの関係を断つのではなく、関係のあり方を組み替え、共に働く道を探ることも自立のあり方だと説明した。
講演の後は、会場からの質疑応答を交えた座談会が行われた。来場者からは、フェリスの創立に関わったミラー夫妻がなぜ学院に戻らなかったのか、訓令第12号とキリスト教教育の関係、高等学校卒業生の進路などについて質問が寄せられた。登壇者たちはそれぞれの執筆分担や専門分野を踏まえ、講演で示した論点をさらに掘り下げて応じた。年史に記された事実を確認するだけでなく、その背景や意味を問い直す場となった。

シンポジウム終了後、場所を移して行われた茶話会では、卒業生たちが旧交を温める姿も見られた。席上で秋岡氏は「これからのフェリスを考える上で、『150年史』編纂は非常に大きな意義があったと思う」と語った。
今回のシンポジウムを通して見えてきたのは、150年という時間が、創立から現在へと続く平坦な一本道ではなかったということである。戦時下の宗教教育をめぐる制度変化、戦後の教育改革、学校の拡大、海外のミッションとの関係再編。学院はそのつど、内外の条件に向き合いながら歩みを重ねてきた。その歴史には、組織としての決断だけでなく、学び続けた生徒・学生たちや教育を担った人々の生が刻まれている。
学校の歴史を記すことは、創立以来の出来事を年代順に並べることにとどまらない。何を史料として採用し、誰の経験に目を向け、学校の歩みをどのような視点から捉えるのか。今回のシンポジウムからは、フェリスの150年を、学校組織の発展だけでなく、そこに生きた女性たちやキリスト教教育を支えた人々の歴史として描こうとする姿勢が浮かび上がった。
【関連情報】
フェリス女学院歴史資料館
https://www.ferris.jp/history/siryo.html
場所:フェリス女学院150周年記念館(山手6号館)1階
開館:月曜日~金曜日 10:00~16:00
休館:土曜日・日曜日・祝日・本学院休業期間 *開館カレンダーを要確認。
















