【この世界の片隅から】 「ホーム」の境界が揺らぐ時――米国における移民取り締まりの現状と問い 姜 善芽 2026年2月21日

「ホーム」とは、単に屋根のある場所ではない。それは人が守られ、安全に休み、自分自身に立ち返ることのできる聖なる場所である。しかし今、アメリカで起きている出来事は、この個人のホームの境界を根本から揺るがしている。
2025年以降、米政府はICE(米国移民税関捜査局)による移民取り締まりを大幅に強化してきた。公式には「不法滞在者を特定し、移民法を執行するため」とされているが、その実態については各地から深刻な懸念が報告されている。
カリフォルニア、ニューヨーク、シカゴなど、移民や難民が多く暮らす都市を中心に、ICE職員による突然の検問や拘束が相次いでいる。そのまま収容や強制送還に至るケースも少なくない。特に問題視されているのは、ICEの活動が国境や空港といった限定的な場所にとどまらず、住宅地や職場、学校周辺など、人々の日常生活の空間そのものに入り込んでいる点だ。家の前、通勤途中、子どもを学校に送り出す時間。まさに日常の只中で拘束が行われることで、「ホーム」はもはや安全な領域ではなくなりつつある。
さらに深刻なのは、拘束された人々の中に、不法滞在者ではなく、すでにアメリカ市民権を持つ人々や合法的滞在者が多く含まれているという事実である。この現実は、問題を単なる移民政策の是非から、市民の安全と人権の問題へと転換させた。

南ミネアポリスの教会で、取り締まりを恐れて外出を控える家族向けの食料品配達を梱包するボランティア(MPR Newsより)
多くの人権団体や法律家は、検問や職務質問のきっかけが人種や外見、使用言語やアクセントといった要素に基づいている可能性、すなわち人種プロファイリングの問題を指摘している。さらに、顔認識アプリや携帯電話の位置情報といった監視技術が、本人の十分な同意や説明なしに用いられているとの報道もある。
こうした状況は、移民当事者に限らず、その家族や隣人、地域社会全体に「常に見られている」という恐怖を広げている。
一方で、こうした現実に対して、市民を中心とした抗議や連帯の動きも各地で起きている。その決定的な契機となったのが、2026年初頭、ミネソタ州でICEの執行に関連して一人の白人女性が命を落とした事件、さらにオレゴン州で起きた銃撃事件であった。これらの出来事の後、ミネソタ州では市民の結束がいっそう強まり、恐怖と暴力に対して勇敢に立ち向かう動きが続いている。
取り締まりを恐れて日用品を買いに行けない有色人種の住民のために食料を配給する隣人たち、親を失ったかもしれない子どもを迎える社会福祉士たち、独り残された動物を保護する人々がいる。極寒の中で交代しながら街を見守る母親たちがいる。これらは組織化された「計画」ではない。恐怖の中でも隣人を見捨てないという選択の積み重ねである。教会やインターフェイス(宗教間連携)団体は、プロテストや祈祷会を導きながら、困難な時こそイエスの教えに基づき一つになることを、日々の実践で示している。
もっとも、アメリカの教会の中でもこれらの出来事の受け止め方は一様ではない。ローマ書13章を引き合いに、国家権力に対抗することはクリスチャンとしてふさわしくないと考え、批判する人たちがいる。一方で、正義を求め、いかなる状況においても隣人を愛する努力をやめてはならないと考える人たちもいる。この中で「寄留者を愛せよ」(レビ記19章34節)という言葉の意味が違ってくる。それは危険や不便を引き受けながらも、共に留まるという神様の呼びかけではないか。
ミネソタで日々生まれている無数の小さな物語は、大きな見出しにはならないかもしれない。しかしそれらは確かに語っている。恐怖よりも愛が強いこと、断絶よりも共同体が先にあることを。
このような時代だからこそ、私たちは真のホームとは何かを示す召命を受けている。ホームは壁で守られた場所だけでなく、隣人と共に立つ場所である。いま、教会に問われているのは、この神の愛を、どのような形で生きるのかということではないか。

ミネアポリス空港で1月24日、数百人の聖職者による強制送還便に反対する抗議活動(United Methodist Inightより)

カン・ソナ 東京神学大学神学部卒業、韓国メソジスト神学校と米国の南メソジスト大学にて修士号、米国のガレット神学校にて旧約神学専攻で博士号取得。北イリノイ州の合同メソジスト教会で按手を受け、担任牧師として赴任し現在に至る。














