CLIで中村穣氏、豊田信行氏が公開対談 「自己肯定」ではなく「神の肯定」へ 霊性の神学が示す解放 2026年3月30日

「自己肯定感」を高める必要性が盛んに叫ばれる現代、それに縛られてかえって苦しむ人々が少なくない。クリスチャンライフ学院の主催により、「自己肯定感の落とし穴――霊性の神学の世界観」と題された特別公開対談が3月に行われた。登壇したのは、中村嬢(単立飯能の山キリスト教会牧師)と豊田信之(単立ニューライフキリスト教会牧師)の両氏。自身の実体験や「霊性の神学」の視点から、真の自己のあり方について掘り下げられた。
豊田氏は、現代人が自己肯定感を持てない根底には「常に正解を追い求めなければならない」という強迫観念があると指摘。クリスチャンであっても、世俗的な「正解」が「神のみこころ」に置き換わり、「これがみ心かどうか」と常に不安を抱え、自分の人生を生きている実感を持てない状態に陥ることがあるという。また、理想の自分や「こうあるべき」という姿はすべて「偽りの自己」であり、そのような自分をいくら受容しようと努力しても、本当の平安は得られないと語った。
中村氏は、生まれつき左手に障がいがあることに対する自身の葛藤を分かち合った。人と同じスタートラインに立つために必死に努力し、障がいを克服しても、決して自己肯定にはつながらなかったという。しかし、聖書の「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(コリント人への手紙第二12章9節=新改訳2017)という言葉に出会い、価値観が劇的に転換した。「弱さを克服して自分を肯定する」ことをやめ、「私が私を肯定するのではなく、神様が私を肯定してくださる」と受け取った瞬間、真の解放を経験したと証しした。
豊田氏もまた、33歳の若さで徹夜祈祷中に急逝した牧師の父に対する複雑な思いを吐露した。神に守られなかったという思いから長く苦しんだが、聖書の「私たちは神の作品(マスターピース)」(エペソ人への手紙2章10節)という言葉に触れた時、父の生涯が「無念の死」ではなく一つの「神の作品」であったと気づき、深く慰められたと振り返る。
「マスターピース(最高傑作)」であるということは、他の誰とも違う独自性を持っているということである。豊田氏は、同調圧力の強い社会において「人と違うこと」はしばしば拒絶の理由や痛みとなるが、神の視点から見れば、その違いこそが面白さであり、尊さであると語る。自分の弱さや違いを無理に直そうとするのではなく、ありのままの自分を神の作品として見出すことが重要である。
キリスト教において「自分を捨てる」という教えは、しばしば「自己否定」や「自分の願いを押し殺すこと」と誤解されがちである。しかし、豊田氏はそれが「自己執着からの自由」であると語る。神が私たちに与えた独自性や願いを否定するのではなく、それに過度に固執しないことだという。
そして「自分の十字架を負う」とは、クリスチャンという大雑把な枠組みで一般化された義務を負うことではなく、神に真剣に問いながら、自分の人生の歴史や痛みを踏まえた上で「自分固有の十字架」を見出していくことであると強調した。
対談の最後に、自己肯定感で苦しむ人々へのメッセージが送られた。豊田氏は、「神様は私たちを作品として楽しんでおられる。イエスが洗礼を受けた際に父なる神が『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者』と宣言されたように、その神の喜びの中に私たちの居場所がある」と語った。
中村氏は、「行動の先に信仰を見出そうとする『道徳観』を一旦捨てること。こうあらねばならないという思いに支配される手前で、自分が神に造られたマスターピースであることを受け取ってほしい」と締めくくった。














