【この世界の片隅から】 「日本ホーリネス教会」から「台湾聖教会」へ(1) 王 政文 2026年4月21日

 日本ホーリネス教会の起源は、1901年にアメリカの宣教師チャールズ・カウマンと日本の中田重治が東京で共同設立した「中央福音伝道館」に遡る。当初の目的は伝道のみを行い、教会を設立しないことであったが、その後伝道活動は拡大し、徐々に日本各地で伝道館を設立するに至った。続いて1905年に「東洋宣教会」が設立され、1917年には正式に日本ホーリネス教会が組織された。同教会の神学の核心は、「新生・聖化・神癒・再臨」という「四重の福音」を強調することである。教団設立後、伝道活動は急速に発展し、日本国内だけでなく、積極的に海外への伝道も展開した。

 日本ホーリネス教会による台湾伝道は1920年代初頭の巡回伝道を経て本格化する。1926年1月、中田重治と安部藤夫は台湾に渡航し、基隆に上陸し、直ちに南下して屏東へ向かい、南から北へと13日間にわたる全島巡回伝道活動を展開した。1月30日には中田重治が台湾日日新聞社の2階を借りて開幕礼拝を執り行い、翌日には台北市御成町一丁目十番地(現在の中山北路一段)にて初の主日礼拝を開始し、「台北ホーリネス教会」を設立した。当初の伝道対象は主に台湾在住の日本人であり、会合は日本語で行われ、伝道人員も日本から派遣されたものであったが、多くの台湾人や元々長老教会に属していた信徒も引きつけた。

 このような異なる民族間を超えた魅力が、ホーリネス教会の台湾における発展の基礎を築いた。台湾人の若者信徒の中には、王錦源のように日本へ渡り東京聖書学院に進学し、卒業後に故郷に戻って伝道活動に従事する者もあった。彼は1928年に台南県西港郷に西港ホーリネス教会を設立し、台湾人が主体となる初のホーリネス教会となった。

王錦源牧師(『新竹聖教会創設四十五週年紀念特刊』より)

 ホーリネス教会の伝道方法は日本統治時代において非常に活発で魅力的であった。高進元は伝道初期に大鼓を背負い、自ら打ち鳴らし歌いながら街角で伝道を行った。王錦源もその熱意ある手法を回想しており、大声で手拍子を打ち歌い、祈ることが多かったと記録されている。こうした新奇な伝道方法、例えば自転車伝道隊や行軍伝道などは、当時の宗教環境において独自の存在となり、多くの聴衆を引きつけ、部分的にはその新鮮さと珍しさによるところが大きかった。

 1936年に日本ホーリネス教会が中田重治を中心とする「きよめ派」と、車田秋次らを中心とする「聖教会」とに分裂すると、台湾のホーリネス教会は聖教会に所属することとなった。1940年の時点で、台湾の聖教会の信徒数は台湾人が1481人、日本人が236人、そのほか外国人が50人に上った。このデータから、聖教会は日本統治時代に日本から伝わった教派の中で、台湾人との関係が比較的緊密であり、台湾人信徒数が最も多い教派の一つであったことが示されている。日本統治時代を通じて聖教会の勢力は、台湾基督長老教会やカトリック教会に次ぐ規模であり、台湾社会において確実な地盤を築き、一定の発展を成し遂げたことが分かる。

 日本政府は「宗教団体法」及び「治安維持法」の規定により、ホーリネスの強調する「再臨」の教義が日本国体に反するとして、当時、日本基督教団第六部(日本聖教会)と第九部(きよめ教会)となっていたホーリネス系の教会の牧師たちを1942年から43年にかけて検挙し、これらの教会は解散を命じられ、一切の伝道活動が禁止された。この「ホーリネス弾圧事件」は台湾の聖教会にも適用され、台湾の聖教会はすべて閉鎖せざるを得なかった。これに伴い、一部の信徒は集会を停止し、他の信徒は危険を冒しながら信徒の家庭で秘密集会を開き、さらに一部の信徒は近隣の長老教会へと移って礼拝に参加した。

 戦後、台湾の聖教会は次々と活動を再開した。台南聖教会は1945年10月7日に、戦後いち早く集会を再開した。続いて西港と新竹の聖教会も相次いで再開され、戦後の「台湾聖教会」としての再出発の拠点となった。記録によれば、戦後の最初の主日には100人を超える会員が各地から集まり礼拝に参列し、閉鎖期間中に多くの困難を経験したものの、教会の核となる力は完全に失われていなかったことを示している。

(原文:中国語、翻訳=松谷曄介)

王 政文
 おう・せいぶん 国立台湾師範大学歴史学博士、東海大学歴史学部副教授。専門は台湾史、台湾キリスト教史。特にキリスト者の社会ネットワーク・改宗プロセス・アイデンティティーの相関関係を研究。著書に『天路歴程:清末台湾基督教徒的改宗与認同』(2019年)など。

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