【映画評】 島のまなざし 『日泰食堂』 2026年6月4日  

 香港の摩天楼そびえる都心部から、南西へ30分ほど連絡船に乗ると、長洲島の埠頭へ着く。郊外まで隈なく超高層住宅がひしめく九龍や香港島市街の騒擾からは遠い、船以外に大量交通機関を持たない長洲島の穏やかな時間を求め、週末ともなれば島の浜辺は都心からの客で賑わう。のどかなその光景は、雨傘運動の2014年以降に香港社会を襲った変容とも一見無縁にみえる。東京でたとえるなら、鎌倉や熱海のような行楽地で営まれる食堂の歳月。そこに流れる蜜のように濃密な時間へ寄り添う『日泰食堂』は、類稀なその距離感から今日の香港を映しだす傑作ドキュメンタリーとなっている。

 店主であるおじいのジョン(丈)さんが、食堂の軒先でイカを焼く場面から映画は始まる。日泰食堂のテレビ画面に流れるニュース映像は、吉林省の観光地で石臼を挽き豆腐を作る女性の手を映している。ニュースは伝統の大切さを説くが、おじいの隣に座る若い娘が「うそくさいな」と口走る。「お前は機械が作る豆腐しか知らないだろうが、昔はみなこうしてたんだよ」とおじいが応える。テレビ画面は天安門広場の軍隊行進場面へと切り替わる。感慨深そうに見つめるおじいとは反対に、娘は一瞬顔をしかめて席をたつ。

 その娘フェイメイ(肥美)は、島生まれの馴染み客で中学からは香港島へ通っており、島外の出来事とりわけ香港都心部の変化に無関心ではいられない。おじいとはこの点で意見が対立しときに言い合いにもなるが、そのことで関係性が決裂したりはせず、長いスパンで育まれた絆が対立の前提にあることを窺わせる。そうしてコロナ禍が島を襲う。2019年夏には反政府デモに業を煮やした中国政府によってマスク禁止令が出された香港市街でも、2020年以降は誰もがマスクで顔を隠すようになる。観光客が途絶えても淡々として店を開け、軒先で手際よくイカを焼くおじいの姿に、様々な時代を生き抜いてきたしなやかさが映り込む。

太秦提供

 急激に変わりゆく香港都心を歩くフェイメイの横顔は、リラックスし切って思うままに放言する食堂での彼女がみせる溌剌さとはあまりにも対照的だ。声高になにかを主張するのではない。この映画は、決して政治的な批判や痛烈な風刺のために撮られてはいない。しかしだからこそ、一層重く響くものがある。言外に突きつけてくる圧がある。〝香港〟がホームとは感じがたくなる変化に身を曝す彼女を通して、〝長洲〟の輪郭がより際立ってくる中盤の構成は秀逸だ。

 その一方、中盤ではジョンおじいが祭りの催される夕べの路地を夫妻で歩く姿も映しだされる。ジョンおじいにとっては長年慣れ親しんだ催しであることが、店にいる時よりも緩んだ表情から窺える。太平清醮(タイピンチウ)と呼ばれる道教の伝統的な祭りの中でも長洲のそれは100年以上の歴史をもち、国家級無形文化遺産にも登録されているのだが、この場面によってフェイメイがまだ持たない時間軸を現出させ映画の奥行きを増す演出もまた見事だ。

 本作監督のフランキー・シン(冼澔楊)は長洲島出身で1989年生まれ、フェイメイとは小学校の同窓生だという。かつて監督もまた日泰食堂の常連客であったが、映画を学ぶため台北へ留学し、卒業後も台湾の映像業界で働いている。「ここは私の知る香港ではない」とつぶやくフェイメイはいわば監督自身の分身であり、彼女のうつむきがちな横顔に監督の内心が投影されているとも受け取れる。敢えていえば、そのように抑制された仕方によってのみ「香港」を語る慎重さが、この映画が撮られる必然をよく象徴する。必然でありつつも、現実にはあり難い隘路を通って実現された稀有の作品であることを示している。こうしてみたときシン監督の身振りは、京都で映画を学び出身地の与那国島で映画を撮りつづける東盛あいかや、那覇に拠点を置き台湾と日本の“はざま”を焦点化しつづけるコウ・インイク(黃胤毓)を想起させる。

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 ジャンルとしての「香港映画」は、往年の輝きを失って久しい。今日の香港映画は制度的にも資本の面でも中国大陸本土へ大きく依存し、香港映画黄金期の最後を飾ったベテラン監督やスター俳優たちのなかには中国大陸本土へ、あるいは台湾や米国など国外へ活動のベースを移した者も少なくない。にもかかわらず、今日の香港において「香港映画」の蓄積を培養土として若い世代が映画を志すとき、アジア市場を席巻するカンフー映画製作などはもう望みようもなくなったとき、自分が何者であるかという問いは一層重きをなす。シン監督が見つめるのは変化そのものではなく、変化に呑み込まれず日々を営む人々の佇まいなのだ。自らの足元にある風景を掘り下げること。その果てにこそ、他者にも届く普遍性は立ち現れる。本作はそのことを静かに証す。

 かつて筆者は二度、長洲島へ滞在したことがある。いずれの機会も、同世代の学生たちに連れられ一日がかりで遊びに出かけ、浜辺で砂城をつくり肉野菜を焼くなど心ゆくまでリフレッシュした楽しき思い出となっている。残念ながら記憶にはないものの、映画に登場する人物のいずれかとすれ違っているかもしれず、何なら挨拶くらいは交わしていたかもしれない。日泰食堂は当時もあったのだろうし、きっとジョンおじいは軒先で炭火の煙に目を細めながらイカを焼いていたのだろう。そのように、想像する。連想する。ウクライナやパレスチナにもきっと、黒海や東地中海を望む港町のジョンおじいがそれぞれいて、いまこの瞬間にも熟練の手つきでイカを焼いている。その姿を撮る若者がいる。ニュース映像が決して伝えることのない、世界のリアルがそこに息づく。そのように想像させてくれる映画が目前に届けられる。そのことに希望を感じる。

(ライター 藤本徹) 

『日泰食堂』 日泰小食
公式サイト:https://nittai-shokudo.com/

ユーロスペースほか全国順次公開中。

*本作タイトル『日泰食堂』の「日泰」をめぐって。これは原題であり店名「日泰小食」に由来するものですが、広東語―日本語のネット上の翻訳サイトやAIなどでは概ね「日本タイ食堂」と訳されてしまいます。しかし実際には「泰平」「安泰」などの日本語もあるように、日々安らかにあるようにというニュアンスから本作の内容的にも相応しく採用されたものと思われます。確認のため広東語日本語通訳を職能とする知人であるCandy Cheungさんに確認したところ、香港国際映画祭HKIFFサイト中の「日日康泰」と解釈する一文をご紹介いただきました。

HKIFFサイト内『日泰食堂』言及部:https://industry.hkiff.org.hk/image/catalog/20210201150548_743.pdf

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