日本基督教学会で森本あんり氏、岡本亮輔氏ら講演 ナショナリズムと「教会なきキリスト教」問う 2026年8月29日

日本基督教学会の第74回学術大会が8月26、27の両日、東京女子大学(東京都杉並区)で開かれた。主題は「キリスト教とナショナリズム」。初日の公開基調講演では森本あんり氏(国際基督教大学名誉教授)が「キリスト教ナショナリズム――不安なアメリカの変貌」と題して講演し、国家とキリスト教を直接結び付ける思想を、米国史と聖書の双方から批判した。若手研究者イニシアティブ企画では岡本亮輔氏(北海道大学教授)が、教会への所属や明確な信仰を前提としない「ポスト信仰時代」のキリスト教について問題提起。2日目には公開シンポジウム「キリスト教とナショナリズムの多角的検討」が行われ、赤江達也氏(関西学院大学教授)、加藤喜之氏(立教大学教授)、森口舞氏(名城大学准教授)が登壇し、森島豊氏(青山学院大学教授)が司会を務めた。
森本氏は、40年前の1986年、フルブライト奨学生として米国留学を始めた際、バージニア州ウィリアムズバーグで「ウィリアムズバーグ憲章」の起草大会に参加した経験から語り始めた。同憲章は、ジェファソンが起草したバージニア信教自由法制定200年などを記念し、宗教の多様性や良心の自由を尊重することを、米国が世界に誇る民主的価値として再確認するものだった。
それから40年。森本氏は、5月にホワイトハウス主導で行われた「再奉献250」を例に、今日の米国では「キリスト教徒であることがアメリカ人であることの第一義的な条件」であるかのような考え方が広まりつつあると指摘。国家とキリスト教徒を直結させれば、信教の自由によって築かれてきた米国社会の強靱さが失われ、「形ばかりの信仰と打算的な献身」が広がりかねないと警告した。
また、「政教分離の理念は20世紀のリベラリズムが作り上げた欺瞞で、米国は建国当初からキリスト教国だった」とするキリスト教ナショナリストの主張についても、歴史的事実とは大きく乖離していると指摘。連邦憲法には公職就任に際しての宗教審査を禁じる規定があり、修正第1条には公定宗教樹立禁止が定められていることから、米国連邦がキリスト教を公的基礎とする国家として設計されたとの主張は「少なくとも学術的には成り立たない」とした。
さらに議論を聖書にさかのぼらせ、「選び」と「創造」の思想から国家と信仰の関係を考察した。神がイスラエルを選んだことは、イスラエルそのものに絶対的な特権性があることを意味しない。神は世界の創造主であり、「聖書の神は国家神ではない」と強調。神は国家と運命を共にせず、特定の国家を無条件に恵みの対象とはしないとした。
選ばれた民であることは無条件の祝福ではなく、契約への責任と神の裁きの可能性を伴う。森本氏は「選びは国家の自己神格化を内在的に批判する」と述べ、聖書が告げる神を特定国家の神とみなすことは、いかなる国においても神学的に正当化できないとの見方を示した。
建国250年を迎えた米国で、「独立宣言」の歴史的評価をめぐる対立が社会の分断と結び付いている現状にも言及した。「すべての人は平等に創られた」という理念は、奴隷制や人種差別という現実との矛盾を抱えながらも、その後、現実を告発し変革する規範として働いてきたと指摘。理念は現実を正当化するイデオロギーにもなり得る一方、「理念を裏切っている現実を告発する規範」にもなるとして、正義の実現を希望し、「祈り求め、働き続ける」必要を訴えた。

同日午後の若手研究者イニシアティブ企画「日本社会 meets キリスト教/キリスト教 meets 日本社会」では、岡本氏が宗教社会学の立場から「ポスト信仰時代」のキリスト教を考察した。
岡本氏は、近代化によって教会への所属や礼拝出席が減少しても、それを宗教そのものの消滅と同一視すべきではないと指摘。「信仰」「実践」「所属」を別々の要素として考える必要があるとし、日本では明確な教義への信仰を持たなくても、初詣や供養、教会での結婚式など宗教的実践に参加することは珍しくないとして、「信仰なき宗教」という捉え方を提示した。
また現代では、宗教組織が「聖なるもの」や霊的なものに接する唯一の入り口ではなくなっていると分析。宗教に求められるものも、死後や来世を含む「救済」「真理」から、日々をよりよく生きるための「癒し」「意味」「つながり」やウェルビーイングへと重心が移りつつあると述べた。インターネットが宗教との主要な接点となるなど、「教会が唯一の入り口ではない」状況が広がっているという。
具体例として挙げたのが、スペインのサンティアゴ巡礼とフランスのテゼ共同体。サンティアゴ巡礼は1985年には年間1245人程度だったが、2025年には53万人規模に増加したという。岡本氏は、自らの聞き取りや参与観察から、日常的に教会へ通う人ばかりではないにもかかわらず、長距離を歩く実践そのものが伝播し、多くの人を引き付けていると分析した。
テゼでも、普段は教会と距離のある若者が各国から集まり、短い歌や沈黙を中心とした礼拝に参加する。岡本氏は、従来の「教会型キリスト教」に対し、持続的な所属を必ずしも前提としない「巡礼型キリスト教」とも呼べる形が現れているとして、「信仰なき実践」や「教会なき接触」の広がりを指摘した。
これに対し岡田聡氏(鎌倉女子大学講師)は、ウェルビーイングを支えるものとしてキリスト教が残るのであれば、他宗教や心理療法との違いはどこにあるのかと問い、「何がキリスト教なのか」「なぜキリスト教なのか」という問題を提起。キリスト教には人の安心を支えるだけでなく、そもそも何を「よい」状態とみなすのかを問い直す批判性があるのではないかと論じた。
落合建仁氏(金城学院大学教授)も、ポップカルチャーなど教会外に現れる「キリスト教的なもの」を入り口として、聖書やキリスト教へとつながる道筋を整える必要性を指摘。同時に、制度から切り離された実践や文化現象をどこまで「キリスト教」と呼び、キリスト教学の研究対象に含めるのかという問いを提示した。
岡本氏は質疑で、「救済からウェルビーイングへ」という整理について、両者がまったく異質なものに置き換わったという意味ではなく、社会の変化によって宗教に求められる機能の「重心」が変わったとの分析だと説明。セラピーや自己啓発など、かつて宗教が担ってきた機能が非宗教的な領域へ分散している可能性も示した。
国家と結び付いた時、キリスト教はいかに自らを相対化できるのか。教会という制度から離れた時、どこまでをキリスト教と呼ぶことができるのか。2日間の大会は、「キリスト教とナショナリズム」という主題を軸に、社会の中でキリスト教が占める位置と、その境界そのものを問い直す機会となった。















