東洋英和 高3生の礼拝メッセージが拡散 「違いは神からの賜物」に共感の嵐 2026年9月12日

東洋英和女学院中学部・高等部(東京都港区、石澤友康部長)が9月3日に公式サイトで公開した、高校3年生による「生徒礼拝」のメッセージがSNSで異例の反響を呼んでいる。Xユーザーが11日、記事へのリンクとともに「すごい文章だ」と投稿すると一気に拡散し、12日までに1600万回を超える表示を記録した。別の投稿でも「このような話をする機会を設ける学校 すてきだと思う」と紹介され、学校礼拝で語られた一人の高校生の言葉が、キリスト教や学校教育の枠を越えて読まれている。
同学院は、カナダ・メソジスト教会(現カナダ合同教会)から派遣された女性宣教師マーサ・J・カートメルが1884年、東京・麻布鳥居坂に開いた東洋英和女学校を起源とするプロテスタント系の学校。「敬神奉仕」を建学の精神に掲げ、現在も「礼拝で始まり、祈りで終わる」学校生活をキリスト教教育の基盤としている。
話題となった「生徒礼拝」は、主に高3が下級生に向け、東洋英和で学んだことを踏まえて自分の思いや伝えたいことを語るもの。司会、メッセージ、奏楽も生徒が担い、中高6年間で得たものを後輩に手渡す場として以前から続けられてきた。月1回ほど行われるクラス礼拝でも、生徒自身が司会や奏楽、話を担当しており、「語る側」に生徒が立つことは同校の礼拝文化の一部となっている。
今回朗読された聖書は、コリントの信徒への手紙一12章14~18節。「身体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています」と、異なる働きを持つ一人ひとりが一つの体を形づくることを説く箇所だった。
メッセージは「わたしは料理が壊滅的にできません」という思いがけない告白から始まる。ごぼうと生姜を間違え、調理実習で作っていたタピオカをすべてシンクに流し、裁縫では布を短く切って「ノースリーブの甚平」を作ってしまった。ユーモアを交えた失敗談を重ねながら、やがて話は、自分が人の話を聞いたり、複数のことを同時に行ったりすることに難しさを感じてきた経験へと進む。
他の人が当たり前にできるように見えることが、なぜ自分には難しいのか。かつてはそれを自らの「怠惰さと傲慢さ」に帰し、自分の一部を消したいと考えたこともあったという。さまざまな検査を経て、自身の側面には「こうではないかという名前」があるとしながらも、名前の有無にかかわらず、それは「治すもの」ではなく、付き合っていくもの、自分を自分たらしめているものだと受け止めるようになった。
そこから生徒が投げかけるのが「多様性」だ。
それは遠くにいる「名も知らぬ誰か」だけのために学ぶものではなく、「明日のあなた」のためになるかもしれない。世の中にも、学校にも、教室にも「色々な人」がいて、自分自身もその一人なのだと説く。知ることによって、不当な扱いを受けた時には怒ることができ、違いを打ち明けた人に「無意識の礫」ではなく「安らかな木陰」を差し出すことができると語る。
さらに生徒は、パウロがコリントの教会に向けて「一つの体、多くの部分」という比喩を用いた背景にも踏み込む。異なる能力を持つ人々の間で分裂や優劣意識が生まれていた共同体に対し、互いを上下で測ることの愚かさを示す言葉として読み直した。そして、自らも「普通の良さ」にとらわれ、そこから外れる自分を責めていたと振り返る。
「多くのことを知ってみてください。多くのことに触れてみてください」。そう呼びかけ、自分に向けて投げ続けてきた「石」を手放すことができたと告白。最後には、一人ひとりの違いを「神さまから与えられた賜物」と受け止め、「一人一人が神さまに愛される大切な存在」であることを覚えてほしいと結んだ。
反響はキリスト教関係者にも広がった。東洋英和女学院小学部チャプレンで、日本基督教団吉祥寺東美教会牧師の陣内大蔵氏はフェイスブックで、若い教員がチャプレン室に駆け込み「センセ、礼拝説教がバズってます」と知らせてきたことを紹介。「文章は上手いし、ユニークで柔らか」で、本人の文脈から「本心が伝わって」くると評価した。
ネット上でも、「騙されたと思って読んで欲しい」など、文章力への驚きとともに内容と書き手自身の姿が重なっている点を評価する声が相次いだ。この思わぬ「バズ」は、日常的に積み重ねられてきたキリスト教学校の礼拝が、若者自身の言葉を媒介に学校の外へ開かれ、1000万人を超える人々の目に触れ得ることを示した。















