【Web連載】ボンヘッファーの生涯(13) 神学の学徒は、今日何をなすべきか〈中編〉 福島慎太郎 2026年9月23日

反省

 前回について、書き手としてたいへん手応えがあったものの、読んだ友人から「長すぎる」と苦情が入った。ふてぶてしくも仲間内で「牧師は話が長すぎる!」と文句を垂れていたが、それが自分へ返ってくる番となった。そういえば、「説教者は語るよりも聞くことの方が大きな奉仕になりうることを忘れている」とボンヘッファーも言っていたような。

【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(19) 語る者は聞く者であれ 福島慎太郎 2024年10月14日

ナチスを支持する神学とそのロジック

 前回からの続きで「神学の学徒は、今日何をなすべきか」シリーズの〈中編〉となる今回は、「ナチスを支持する神学とそのロジック」について考えてみたい。もちろん一口に「支持する」と言っても、その理解の幅は人や教会によってグラデーションがあるので、今回は共通して問題点として挙げられやすい「選民思想」「創造の秩序」の二つの論点を考察する。

選民意識

1−1 危うい聖書解釈

 聖書の中に「ゲルマン民族は特別な召命と祝福を受けた群れである」などと書かれているわけではない。しかし、ナチスや、それを支持した一部の神学者たちは、旧約聖書に描かれる「選び」や「召命」の思想を自らの民族理解へと重ね合わせて「われわれもまた、神から特別な使命を与えられた民族なのだ」と解釈することがあった。要するに、聖書におけるイスラエルの「選び」を、ドイツ民族の特別性を語るための根拠として転用したのである。一つの「選民思想」である。

 こうした理解が生まれた背景には、当時のドイツ社会に広がっていた民族主義的な思想がある。第一次世界大戦の敗戦や経済的混乱、ヴェルサイユ条約への反発などによって「ドイツ民族は本来もっと偉大であるはずだ」という意識が強まる中で、民族や国家の歴史そのものを神の計画の中に位置づけようとする考えが生まれていった。そこにキリスト教の「選び」や「召命」という概念が重ねられることで、ドイツ民族の歴史や使命を、単なる政治的主張ではなく、神によって与えられた使命として理解することが可能になったのである。

 聖書を読む時、私たちは聖書によって自分たちの考えを問い直される。しかし、その順序が逆転すると──つまり、私たちの考えに聖書を合致させようとすると、聖書は私たちを問い直す言葉ではなく、私たちの考えを正当化するための言葉になってしまう。

1−2 「選民」と「排斥」は表裏一体

 「選民」と往々に並行して登場する概念に「排斥」がある。当然ながら「自分たちは神に選ばれた特別な存在だ」と考えるなら、その使命を妨げる人々は「選ばれていない存在」や「排除すべき存在」と見なされやすくなる。そして当時の一部のキリスト者は、こうした排斥を単なる民族的・政治的主張にとどめず、聖書の言葉や聖書解釈によって正当化しようと試みていた。

 実際、当時の文献を調べると、多様な聖書解釈とその適用が展開されていたことがうかがえる。例えば、「聖書に登場するパリサイ派を、現代のユダヤ人に置き換えるべきだ」と迫害を正当化したり、ダビデとゴリアテの物語を自国と敵対勢力との戦いに重ね合わせるような読み方を通して正戦論を展開したりするなどである。

 ナチスによるジェノサイドについて、その精神基軸の一端を歪んだ聖書解釈が担ったというのは過言かもしれない。しかし間違いなく、そのような解釈が人の命を助けるために用いられたのではなく、人々が迫害され、殺されていく現実を正当化したり、黙認したりすることを助けたことは否めないだろう。

創造の秩序

2−1 創造されたのは人間だけではない

 創世記1~2章に描かれている生命の誕生への祝福や、「地を治めよ」という神の命令は、後に「文化命令」と呼ばれてきた。そこには、人間が被造世界を神から託されたものとして受け取り、その秩序を守り、育み、責任をもって管理するという使命が示されている。また、新約聖書においても、ローマの信徒への手紙13章で、パウロは国家の権威を神によって立てられたものとして理解し、社会の秩序との関わりの中で語っている。

2−2 秩序の誤用

 被造世界そのものの存在と意味、そしてそこに働く神の恵みを積極的に捉えようとする神学的な考え方を「創造の秩序」と呼ぶ。神は人間だけを救いの対象としているのではなく、世界そのものを秩序づけ、人間にはその世界を託された者として生きる責任が与えられているのである。

 ただし、ここには重要な注意点がある。それは、国家や民族、共同体といった地上の制度もまた、神の摂理のもとに置かれた存在にすぎず、それ自体が神ではない。ゆえに創造の秩序を語ることと、国家や民族を神聖化することを混同してはならない。

 ところが、この考え方を大きく転用し、逸脱させたのが、ナチスとそれを支持した一部の神学者たちであった。単純化して言えば、彼らは「国家は神によって立てられた秩序である。ならば民族もまた神によって定められた秩序である。そして、ドイツ民族を守り、その純粋性を維持することは、神が定めた秩序を守ることなのだ」という論理を組み立てていった。

 例えば1933年、ナチ政権の公務員法に由来するいわゆる「アーリア条項」が、ナチスを支持する「ドイツ的キリスト者」が主導する教会にも導入され、ユダヤ系の牧師や教会職員を排除する動きが進んだ。また1935年3月、告白教会がナチズムの人種思想を「新しい宗教」と批判する声明を礼拝で読み上げたところ、ナチ当局は700人を超える牧師を一時逮捕した。この出来事は、ナチズムに抵抗した教会への弾圧を示す一例として語り継がれている。

 こうして、本来は被造世界における人間の責任を考えるための神学が、いつの間にか「国家」や「民族」の絶対化を正当化するために利用されていった。その結果、ユダヤ人をはじめ、自分たちの国家観や政策に反対する人々を、「神の秩序に逆らう者」として排除・攻撃する余地が生まれてしまったのである。

2−3 国家とキリスト教

 聖書は国家をどのように捉えているのだろうか。この点については、ローマの信徒への手紙13章とヨハネの黙示録13章を読み比べることで、その輪郭がより明確になる。ローマ13章においてパウロは、国家の権威が神の摂理のもとに置かれていることを語り、社会の秩序を維持する権威として一定の役割を認めている。しかし、それは国家の権力を無条件に肯定することを意味しない。

 そのことを鋭く示しているのが、黙示録13章である。ここでは国家的・帝国的な権力を象徴する「獣」が、神に敵対し、人々に自らを拝ませようとする存在として描かれている。つまり聖書は、一方で国家の権威を神の摂理のもとにあるものとして認めながら、他方では、国家が自らの権力や権威を絶対化し、神に成り代わろうとする時には、それを偶像化として告発するのである。

 この二つを合わせて読むなら、「国家だから従う」のでも、「国家だから否定する」のでもない、より緊張感のある国家理解が見えてくる。国家には固有の役割と権威がある。しかし、その権威は神から与えられたものであって、国家自身が神ではない。だからこそ、国家がその権威の範囲を越え、人間の良心や信仰を支配し、特定の民族や人々を排除・迫害するようになるなら、キリスト者はそれを神の名によって正当化するのではなく、むしろ警鐘を鳴らさなければならないのである。

神のために

 突然だが、あなたは「宗教って何?」と尋ねられたらどう答えるだろうか。私は「認識のソトにある超越との出会いにより、自分の限界を超えた勇気や希望を受け取る営み」と答えている。少し斜に構えるなら「神がいるから」「神のために」という大義名分によって、人は本来以上の力を発揮できる可能性を秘めているという意味だ。

 実際、ある人々は宗教を通して、人間の理解や常識を超えて社会や他者のために働きかけ、平和を実現してきた。一方で、別の人々もまたこれによって、人間の理解や常識を超えて、社会や他者を恐怖に陥らせてきた。そして両者とも、今日もなお教会や社会に見られる現実であろう。

 私はよほどのことがない限り「神のために」という言葉を使わないようにしている。それは、私たち人間がどこまでも罪人である以上、神の望みをすべて知り尽くすことなど到底できないからだ。

 今回紹介した神学を構築した人々もまた、最初から「悪を行おう」と考えていたわけではないかもしれない。むしろ、国家や教会や社会を守り、混乱した時代に秩序を回復しようと奮起していたのだろう。しかし、その善意が善を生み出したかはまた別の問題であり、このようなディレンマはすべての人が抱えているのだと思う。

 だから私たちは、時代を振り返って「愚かだ」と冷笑するのではなく、その時代から学び、今に活かし、未来へつなげる選択をしたいと思う。それこそが、この世界を管理するよう神から託された使命を果たすことになるだろうし、それこそが、神のために私たちができる最善の営みの一つになるのだと思う。

 ナチス政権の成立とともに、ナチズムとキリスト教を結びつけようとする「ドイツ的キリスト者」などの運動が力を持ち、1930年代にはそれに伴う神学的議論が展開されていった経緯がある。次回は、その同時代にボンヘッファーが学生たちに語った「神学の学徒は、今日何をなすべきか」という文書を一緒に読みたいと思う。

 今日も少し長かったか。

【参考文献】

・河島幸夫『ナチスと教会─ドイツ・プロテスタントの教会闘争』(創文社、2006年)
・雨宮栄一『ドイツ教会闘争の史的背景』(日本キリスト教団出版局、2013年)
・R.ベッセル、大山晶訳『ナチスの戦争1918−1949:民族と人種の戦い』(中公新書、2015年)
・長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項』(集英社、2017年)
・岡山英雄『小羊の王国』(いのちのことば社、2019年)

終わりの覚書Ⅰ 映画『ボンヘッファー』とその後②
(本文中に記載)

終わりの覚書Ⅱ カール・シュミットとは何者なのか②「劇薬」の使い方
・牧野雅彦『危機の政治学─カール・シュミット入門』(講談社選書メチエ、2018年)

終わりの覚書Ⅰ 映画『ボンヘッファー』とその後②

 前回で映画『ボンヘッファー』への批判が高まっていることについて言及した。今回、私の説明は一切省き、研究者やメディアによる主な批評を紹介したいと思う。以下、「発信者」「タイトル」「要約」「末尾にリンク」の構成となっている(リンクの最終閲覧日はすべて2026年9月1日)。

①AP News “What would Bonhoeffer do? Anti-Nazi pastor’s legacy claimed, debated across political spectrum(APニュース「ボンヘッファーならどうするか? 反ナチ牧師の遺産と政治的思惑」)”(2025年1月)

 戦後、ボンヘッファーは「反ナチ抵抗の殉教者」として広く記憶されてきた。しかし近年では、右派・左派を問わず様々な政治勢力が「彼は自分たちの立場を支持したはずだ」と主張し、その思想を現代の政治へ結びつける動きが見られる。

 研究者や親族は、特にキリスト教ナショナリズムによる利用を批判しており、その背景にはエリック・メタクサスの伝記や映画『Bonhoeffer: Pastor. Spy. Assassin.』の影響があると指摘する。彼らは、ボンヘッファーは暗殺計画に関与しながらも暴力と信仰の間で深く葛藤した神学者であり、現代の政治的主張のために単純化されるべきではないと強調している。

リンク:https://apnews.com/article/dietrich-bonhoeffer-anti-nazi-pastor-theologian-493ff264db9529f67085c6bacb72a7a9

②The Guardian “How the Christian right is twisting the legacy of an anti-Nazi hero(ガーディアン「キリスト教右派はいかにして反ナチの英雄の遺産を歪めたか」)”(2024年11月)

 ボンヘッファーは本来、国家主義や教会の権力迎合を批判した神学者であったにもかかわらず、近年の米国ではキリスト教右派によって「悪しき国家権力に立ち向かうキリスト教戦士」として再解釈されている。

 その中心にはエリック・メタクサスが提唱した「ボンヘッファー的瞬間」という言説があり、研究者や親族はこれを歴史の歪曲だと批判している。とりわけヴィクトリア・バーネットは、ボンヘッファーが「孤独な英雄」として神話化されていることに警鐘を鳴らし、彼の倫理的葛藤を無視した政治利用や映画による英雄化に強い懸念を示している。

リンク:https://www.theguardian.com/us-news/2024/nov/03/eric-metaxas-christian-right-dietrich-bonhoeffer

③Probst, Christopher J. “Film Review: Bonhoeffer: Pastor, Spy, Assassin, directed by Todd Komarnicki”(クリストファー・J・プロブスト「映画評『ボンヘッファー──牧師・スパイ・暗殺者』」)(2024年)

 映像作品としての完成度は高いが、ボンヘッファーを「暗殺者・武装抵抗の英雄」として描きすぎることで史実を単純化していることも否めない。特に、暗殺計画における役割や時系列の改変、告白教会を一枚岩の反ナチ運動として描く点は、当時の歴史やボンヘッファー自身の神学的葛藤を見えにくくしている。

 また、映画の宣伝が現代政治(特にドナルド・トランプ)と結びつけられたことに対して、国際ボンヘッファー連盟やボンヘッファーの親族は抗議している。ボンヘッファーは自らの行為を安易に正当化したのではなく、罪を引き受け神の赦しに委ねようとした人物であったことを忘れてはならない。

リンク:https://contemporarychurchhistory.org/2024/12/film-review-bonhoeffer-pastor-spy-assassin/

④O’Malley, Michael. “Movie Review: Bonhoeffer: Pastor. Spy. Assassin.” Catholic Review,(マイケル・オマリー「映画評『ボンヘッファー──牧師・スパイ・暗殺者』」『カトリック・レビュー』)(2024年)

 ボンヘッファーの信仰や牧会、ナチスへの抵抗運動を知るための入門として高く評価している。告白教会の形成や反ナチ抵抗組織との関わり、処刑前夜の聖餐式などの描写も印象的である。

 一方で、ボンヘッファーがヒトラー暗殺計画への関与を決断するまでの倫理的・神学的葛藤は十分に描かれておらず、実際には平和主義とキリスト者としての責任の間で深く苦悩した人物像が単純化されている。また、親友で伝記作家のエバーハルト・ベートゲの評価を踏まえ、ボンヘッファーは単純な英雄や聖人ではなく、自らの行為を神の前で問い続けた神学者であり、その複雑さこそが彼の本質である。

リンク:https://catholicreview.org/movie-review-bonhoeffer-pastor-spy-assassin/

総括

終わりの覚書Ⅱ カール・シュミットとは何者なのか②「劇薬」の使い方

1.シュミットが描いた国家像

 シュミットは、政治の本質とは「誰が仲間で、誰が敵か」を見極めることだと考えた。平和な時代には法や議論が社会を支えているように見える。しかし危機の時代になると、人は「何が正しいか」よりも「誰と共に生きるか」を重視する。だから彼は、法が共同体をつくるのではなく、まず「われわれ」があり、その共同体を守るために法があると考えた。

2.敵と味方と決断と

 一方で、この思想には大きな危険もある。それは「われわれ」を守ることが、「われわれではない人」を排除する論理へ変わってしまうからだ。ここにシュミットの思想が「劇薬」と表現されるゆえんがある。

 彼は、非常時には通常のルールよりも迅速な「決断」が必要だと考えた。確かに災害のような場面では、その決断が命を救うこともある。しかし、その考えが国家や政治にまで広がれば、「非常時だから」という理由で法や人権が容易に軽視される危険が生まれる。実際、このような発想はナチス・ドイツで利用され、「敵」とされた人々の排除を正当化する土壌となった。

 だから重要なのは、思想そのものだけを評価することではない。それがどのような時代に、どのような目的で用いられるのかを見極めることである。歴史は、思想の力だけでなく、それを使う人間のあり方もまた社会を大きく左右するのだと教えている。

(つづく)

福島慎太郎
 ふくしま・しんたろう 名古屋緑福音教会ユースパスター。1997年生まれ、東京基督教大学大学院を卒業。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。2026年からはアジア・北米圏のアナバプテスト国際ネットワーク“Onesimus Reconciliation Kappa Delta“の理事に就任。連載「ボンヘッファーの生涯」(キリスト新聞社)を執筆中。

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