【「親なきあと」をともに生きる~お寺と教会の〈語らい〉から始まる支援】 神は指先に宿る 玉置妙憂 2026年10月11日

目の前に転んでいる人がいたとしましょう。その方が65歳以上で介護を必要としていたら、介護が手を差し伸べます。何歳であっても、膝から血を流していたら医療が。障がいを抱えていたら、障害福祉が。
では、40代で、けがも障がいもなかったら? 手厚く張り巡らされた制度の網の目を、すり抜けてしまう人がいることを、私はこれまで何度となく見てきました。
どのような状態の方にも手を伸ばせるようにしたい。そんな思いから、「総合ケアステーション大慈」(東京都江戸川区)が生まれました。訪問看護、訪問介護、居宅介護、重度訪問介護、精神科訪問看護、そして制度では応えきれないことを担うインフォーマルサービス「DAIJI+(ダイジプラス)」。障がいのある人やひきこもり当事者の「親なきあと」を考える「お寺と教会の親なきあと相談室」の活動も加えました。荷物はいっぱい積み込みましたが、船はまだ頼りない筏です。
おそるおそる、そろりと漕ぎ出してみると、すぐにさまざまなものが見えてきました。マンパワー不足の嵐は、想像以上の激しさです。制度のダムの決壊は、すでに一番弱いところから始まっています。
かつて夫を看取った時に感じた、どうしようもない閉塞感が、体感としてよみがえってきます。果てのない闇に八方を塞がれたような息苦しさ。今、話せる人がいたら。ただただ、この思いを聴いてくれる人がいたら。何度、そう思ったことでしょう。
公的なサービスには、どうしても隙間ができます。外から見れば、ほんのわずかな隙間かもしれません。けれど本人や家族にとっては、そのわずかな隙間が越せないのです。誰か来て。話を聴いて。その小さな声に応えたい。総合ケアステーション大慈の原動力は、ただそれだけです。

看護師や介護支援専門員としても活動する筆者
考えてみれば、教会や寺院は、もともと制度の網にかかった人だけを迎える場所ではなかったはずです。病名や年齢、障がいの有無、所得や家族構成にかかわらず、扉をたたいた人を迎え入れる。何かを解決できなくても、その人が一人きりにならないよう、傍らにいる。それは、制度にはできない大切な働きです。
善きサマリア人は、追いはぎに襲われ、道端に倒れていた人を前に、その人が誰であるか、助ける理由があるかを問いませんでした。ただ、目の前の苦しみを見過ごさず、傷の手当てをし、自分のロバに乗せて宿へ運び、その後の世話まで託しました。
仏教にも、これに通じる話があります。ある時、釈尊は病のため自分の排泄物の中に横たわり、誰にも看病されずにいた一人の比丘を見つけました。釈尊は阿難とともにその身体を洗い、寝床へ運びました。そして僧たちに、「私に仕えようと思う者は、病人に仕えなさい」と説きました。
人は、助けを受ける資格があるから助けられるのではありません。目の前に苦しんでいる人がいる。そのこと自体が、手を伸ばす理由になります。善きサマリア人も釈尊も、目の前の人を見過ごさないことからすべてが始まると教えているように思います。
制度と制度の隙間にいる人を、誰一人取り残さない。そのためには、医療や介護、福祉だけでなく、地域の教会や寺院、そして名もない一人ひとりの力が必要です。あの日、あと数日で命を閉じるであろう方が「神は指先に宿る」と私におっしゃいました。その言葉を灯とし、頼りない筏ではありますが、まずは目の前の一人を乗せられるように。大慈は、静かに漕ぎ出したところです。
たまおき・みょうゆう 看護師、介護支援専門員、看護教員、高野山真言宗阿闍梨、専門スピリチュアルケア師。株式会社大慈学苑代表取締役。夫を自宅で看取った経験をもとに、看取り、介護、死別、ひきこもり、希死念慮など、生きる苦しみに寄り添う活動を続ける。2026年9月、東京都江戸川区に「総合ケアステーション大慈」を開設。著書・講演多数。
*問い合わせは同相談室(https://otera-oyanaki.com/)まで。
【「親なきあと」をともに生きる~お寺と教会の〈語らい〉から始まる支援】 知識と同じぐらい大切な場所――老いや別れに備えるために 枝廣祐充子 2026年10月1日
















