予防訴訟で逆転判決 東京高裁 〝信仰上の教義に反しない〟「ピアノ裁判」最高裁判決を踏襲 2011年2月12日

 「原判決を取り消す」――弁護団らが想定した中で「最悪」の結果だった。東京都立学校の教職員ら約400人が、入学式や卒業式で日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱する義務のないことの確認などを求めた「国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟」(予防訴訟)の控訴審判決で、東京高裁(都築弘裁判長)は1月28日、一審・東京地裁の判決を取り消し、教職員側の全面敗訴となった。一審原告団と弁護団は判決を不服とする声明を出し、上告する方針。

原告ら現場での孤立を危惧

 この裁判は、東京都教育委員会が都立高校の校長などに入学式や卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の実施を通達した2003年の「10・23通達」に対し、①入学式・卒業式等における「君が代」斉唱・伴奏の義務が存在しないこと、②不斉唱・不伴奏を理由とする処分をしてはならないこと、③精神的損害に対する賠償を支払うことを求めて04年に提訴された。06年の東京地裁判決は、「10・23通達」と、これに基づく校長の職務命令を違法としたが、都側が控訴していた。

 キリスト者の教員が、式典における国旗掲揚・国歌斉唱が「信教の自由」を害すると主張していることに対し、今回の判決は、「現時点での一般的な社会通念に照らせば、国旗である日の丸及び国歌である君が代が国家神道と不可分ないし密接な関係にあると認識されているとは認められない」とし、「入学式、卒業式等が宗教上の行為等に当たるとは認められず」「キリスト教徒の信仰上の教義に直接反するものともいえない」との判断を示した。


 判決後に行われた報告集会には、原告を含む教職員ら約170人が集まり、弁護団が感想を述べた。

 弁護士の1人は、キリスト者の考え方を尊重し、「信教の自由」に関する今回の裁判所の判断について、「キリスト教のそういう考えがあるということと、『日の丸・君が代』が相いれないということは、普通に考えればよく分かるのではないか」と述べ、判決には納得できないと訴えた。

 原告の1人は、「『10・23通達』に従えないと思っている人は少数になってきていて、現場ではとても孤立している」「本当に今日はつらい1日になってしまった」と述べ、「この国に民主主義があるのだということを、裁判所がわたしたちに示してくれるまで闘い続けていきたい」と意気込みを語った。

 今回の判決について日本キリスト教協議会(NCC)副議長の城倉啓氏は、「非常に残念な結果」とコメント。「『信教の自由』は少数者の立場を守るべきもの」であり、この判決は「まったく論旨が逆転している」と述べた。NCCは今後も関係団体との連携を深めていく姿勢だ。

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「関心持って発信を」原告・木村葉子氏(ウェスレアン・ホーリネス教団伝道師)

 わたしは法廷で判決を聞きましたが、主文朗読の第一声「原判決を取り消す」がまったくの驚きでした。地裁判決後、4年間の審議をまったく無視していたからです。裁判長自身、学者証人を要請し実現したり、初期には原告多数の証言も求め真摯に裁判に向かう姿勢を示していたからです。

 ところが判決ではそれらをまったく無視した逆転の判決を出し、門戸を広げようとした行政訴訟法の改訂にもかかわらず、訴えの方法が不適切であったとして、訴訟の門前払いをし、たらい回しをして、事実上不可能な訴訟の方法を示している。実に誠意のないやり方です。

 ピアノ最高裁判決にゲタを預けて最高裁判決におもねり、憲法、教育基本法に沿った適切な判断をして人権と社会を守るべき司法の良心を放棄しています。日本の司法機関の人権感覚のなさは暗澹たるものでした。
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 10・23通達で、東京の教育現場は意見を言うことも禁止され、疲弊しきっていて、これが全国に広がりつつある教育の危機の事実に対する理解がまったくない、また個人の真摯な、教育的良心、思想良心、信教の自由に対する理解をまったく欠いています。「日の丸・君が代」強制反対の数ある負け続けている訴訟の中で、予防訴訟は唯一、司法裁判官の良心を示すものとして、全国の苦しめられている教職員にとって希望訴訟でした。

 しかし、この判決がお墨付きとなり、現場にさらなる統制が強化され、敗訴に涙を流す現職教職員の姿を目前にしてとても胸が痛みます。都築裁判長は、進行協議で「わたしは信教の自由については分からない」と言っていたのですが、「思想、良心の自由を侵害しない」と同様「キリスト教徒の信教の自由を侵害しない」と言い切っています。
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 わたしはキリスト者として、大嘗祭など国家神道と今でも不可分な天皇制につながる「日の丸」に対する礼、「君が代」による天皇賛美が、単に偶像礼拝の禁止だからできないという主張の仕方では、裁判長ばかりか、一般社会にもその意味が理解されず、個人の宗教的独善に終始してしまうと思います。この問題は、最も重要な教え、真理の父なる神を愛することと隣人愛の教えの両方にかかっています。個人の信教の自由と、子どもたち社会に対する愛と責任として教育の問題に関連しているのです。

 キリスト者自体が、子どもの現在に耳を傾け、学校教育に関心を持ち、一人ひとりが、在日外国人など、立場を無視される人たちの現実を見すえなければ問題を理解しないでしょう。自分の子どもも孫も強制されているのだという関心と戦前の軍国主義教育の反省を考えることで、見えてくるものがあると思います。行政の一つの考えに思想統制されない権利として、自由に学ぶ権利を保障する学校という、子どもたちまた学校の問題として考えない限り理解されないだろうと思います。もっと、キリスト者が声を上げ、人権・平和に意見を発信していかなければ、世の光、地の塩として無益、無用のものになると思います。そこには小さくてもまず、自分との闘いがあると思いますが。
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 基本的人権、人間の尊厳の論拠、絶対性を、文字でなく現実に実現していこうとする姿勢が、キリスト者に問われています。08年国際人権委員会勧告、10年子どもの権利委員会の勧告はどちらも日本政府の「人権に対する理解」が誤っているとさえ指摘し、国際人権基準を満たすように、司法はじめ、教育各機関に対し、「人権研修機関」の必要を説いているのを無視してはいけないと思います。

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声明(抜粋)
 判決は、国歌斉唱義務不存在確認等の請求及び処分差止の請求については、訴えの利益がないとして請求を却下するとともに、10・23通達及び職務命令を合憲、合法とし、損害賠償請求についても、否定している。
 本件訴訟のような訴えの提起が認められることについては、既に最高裁判決も認めていたところであり、また、改正行政事件訴訟法で国民の権利救済を広く認めていくようにした趣旨にも反するといわなければならない。
 また、10・23通達及びそれに基づく職務命令がいずれも違憲・違法でないとしたことは、世論調査で国民の多くが通達による「国歌」斉唱の義務づけは問題があるとしていること、10・23通達発令後、東京都の教育現場において国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することが強制され、そのことに従わない教職員に対する大量の懲戒処分がなされるなどし、生徒、教職員の自由が奪われ、厳しい管理のもとに置かれている実態を無視するものであり、また、基本的人権のなかでもその根幹である思想、良心の自由、教育の自由についての理解に欠け、また、教育についての憲法ともいうべき教育基本法の理解に欠けた極めて不当なものである。
 一審原告らは、この判決を不服として、思想、良心の自由を護り、学校に自由の風を取り戻すため、速やかに上告の手続きを取ることとする。

 2011(平成23)年1月28日
国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟一審原告団・弁護団
「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟をすすめる会一同

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