【映画評】『サラの鍵』 他人事ではいられない知ることの重み 2011年12月17日

 スティーヴン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」をはじめ、ナチス・ドイツによるホロコーストを描いた作品は枚挙にいとまがない。しかし、過去と現代を行き来しながら、一ジャーナリストの視点で「真実」に迫っていくという本作の手法には、史実を掘り起こすドキュメンタリー映画にはない別のリアリティと説得力がある。

 1942年、ナチス占領下のパリでユダヤ人が屋内競輪場に収容された「ヴェルディヴ事件」。フランス警察による一斉検挙の朝、10の少女サラは、「すぐに帰るから」と言い聞かせて弟を隠した納戸に鍵をかける。しかし、両親と連行された彼女は、約束を果たしたい一心で収容所からの脱走を試みる。華奢な少女の肩にはあまりに大きすぎる重荷。

 一方、2009年のパリで、この事件の取材を担当したアメリカ人女性記者ジュリアは、夫の祖父母から譲り受けたアパートが、あるユダヤ人一家と深い接点を持つことを知る。自国で起きた事件について何も知らず、まるで他人事のように話す若い同僚にいら立ちを隠せないジュリア。そして、彼女の身に起きた出来事が、家族を巻き込んで新たな波乱へと導いていく。

 自身も、ドイツ系ユダヤ人の祖父を収容所で亡くしたジル・パケ=ブレネール監督は、「単に歴史を知れというのではなく、なぜそういう事態になったのか、プロセスに関心を持ってほしい。サラの悲劇は、今も、世界のどこにでもある」と話す。

 アフガンでの掃討作戦、ルワンダでのジェノサイド、日本軍による南京大虐殺、堤岩里事件、強制連行、沖縄の地上戦、ヒロシマ・ナガサキの原爆など。事例を挙げるまでもなく、人間の犯した数々の過ちによる無数の犠牲者一人ひとりに、サラのような個別の「物語」があったという当然の事実を、改めて突きつけられる。

 知ることの意味を思う。知るということは、知らなかった自分には戻れないということ。ジュリアのように、生き方すら変えられてしまうということ。たとえ築き上げた「安定」を自らの手で打ち壊そうとも、より「真実」に近づこうとすること。〝十字架〞を背負うということ。

 私たちはしばしば疑念を抱く。はるか昔の遠い国々で起きた出来事が、あるいはそこに人の子として生を受けた「救い主」が、現代に生きる私たちといったい何の関係があるのかと。

 しかし、未曾有の災害に社会も経済も根底から揺さぶられ、「独裁者」を待望する空気の蔓延とポピュリズムの台頭が危ぶまれるなか、二つの時代を結んだこの小さな物語が放つ光は、眩く、重い。

 

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【Ministry】 特集「これからの『礼拝』の話をしよう 白熱教室@ミニストリー校」/スペシャルインタビュー 「原発をどうする?」 12号(2012年1月)

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