「被災地に届け私たちの思い」 上智大 僧侶玄侑宗久氏が講演 2012年4月14日

 上智大学は3月9日、臨済宗僧侶の玄侑宗久氏を招き「東日本大震災追悼の集い――被災地に届け私たちの思い」を同大講堂(東京都千代田区)で開催した。カトリック校で僧侶を招いた企画が実現したのは、同大グリーフケア研究所の高木慶子修道女の尽力によるものという。

 上智学院理事長の高祖敏明氏は仏教者を招いたことについて、「常々一緒に祈ることはできないかと思っていた」と述べた。同大にも100人ほどの学生が被災地から来ており、この学生たちの生活・学資支援として大学では1億円を目標に募金を集めているという。この春に行われた入試では、約400人が被災地から受験した。

 芥川賞作家として小説家の顔ももつ玄侑氏は、「大震災以後の宗教心」と題して講演した。仏教の無常観はどういった世界なのか、日本で「無常」という言葉が根を生やしていることを、日本がインドや中国よりも自然災害の多いことに起因すると述べた。

 日本人の信仰のベースには自然への畏怖がある。自然に敵対して勝つという発想をもたないことを説明し、東日本大震災で宮城県松島町の被害が比較的少なかったのは植物が多くあったためだと話した。

 日本の宗教的な感情を生み出すものは一方に無常があり、しかし無常で割り切れないところに「もののあわれ」というものが拮抗するように生まれている。

 「一瞬一瞬を棄てて未来を憂えず過去を悔やまずという原則はわかっているが、どうしてもひきずる。ひきずってしまう『もののあわれ』というものは肯定的に見てもいいのではないか」と考えを述べた。

 無常という一つの原理をもちながらそこを割り切れず抱く情は、死や生に対する感受性があるが故に生じるもので、日本人の宗教心のベースはここにある。そうしたことを踏まえて、宗教的な儀式とは何であるのかを解説した。

 「亡くなった人のことを忘れたくはない。忘れたくはないが日常に帰りたいという気持ちもある。一日中亡くなった人のことを考えてはいられない。そうしたところで生まれるのが宗教的セレモニーだ。大勢の人と祈りを捧げ、そこで集中的に悲しめば良い」

 玄侑氏は、儀式の最中は無心になり、それが過ぎると「水に流せて」忘れてしまうのだという。しかし水に流しすぎると何も変わらないこともあるので、兼ね合いが難しい、と述べた。そして辛さから逃れるために「儀式は必要だ」と強調した。東日本大震災で被害の大きかった宮城県東松島市では火葬が追いつかず、21人の遺体が一気に土葬された。埋葬のときに聖職者は誰一人と間に合わなかった。

 「そういった事態で遺族は何に慰められたかというと、自衛隊の敬礼だった。何らかの儀式性があることが、救いになることもある。地上の思いを一点に集中させるのみ、ある作法、儀式性が重要になってくる気がする」

 玄侑氏の講演に続き、第2部の「祈りの集い」では、7人の浄土宗僧侶による声明が行われた。照明をすべて落とし、ろうそくの火だけがゆらめく壇上。普段とは異質な雰囲気で、静かに震災の犠牲者をしのんだ。

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