能装束で舞うイエス 立大で新作能「聖パウロの回心」 二十六世観世宗家・観世清和さん 2012年7月14日

〝いつか教会の荘厳な空間でも〟

 かつて宣教師や信徒たちによって、キリスト教をテーマにした「吉利支丹能」と呼ばれる能が数多く上演されていた。その足跡は、禁教という歴史の悲劇によって失われ、詳細について知る術は現在残されていない。当時、使徒パウロの物語も演じられていたことは想像に難くない。

 大震災から1年の節目を迎えた今年3月、林望さん(国文学者)の台本、観世宗家・観世清和さんの演出による新作能「聖パウロの回心」が、立教大学タッカーホール(東京都豊島区)で関係者向けに初めて上演された。シテ(主役)のイエスを演じた観世清和さんを訪ねて、能楽堂の門をくぐった。

 

――「聖パウロの回心」を上演するに至ったきっかけは何ですか?

 私が小学生のころ、教科書に「吉利支丹能」の記述を見つけて興味を持ち、先生に伺ったところ「家に帰ってお父さんに聞いたほうが早い」と言われてしまいまして(笑)。父に尋ねましたら、徳川幕府の禁教令で記録が残っていないと。以来、自分なりに能楽の研究をされている方々にも尋ねてきたのですが、やはり記録がないのでわからない。それで、興味を抱いたまま時間だけが過ぎたわけです。

 そのような中で、息子(観世三郎太=今回は天使役の子方として出演)が立教小学校へ入学したことを機に、そのころの記憶がよみがえりました。学校の行事予定表にある「聖パウロ回心日」という響きが気になり、子どもに聞いてパウロについて書かれた聖書の箇所を読みましたら、がぜん興味がわきました。

 そこで親しくさせていただいている林望先生にご相談申し上げたところ、「僕は信者じゃないから書くことができるかわかりませんが、勉強します」と言っていただきました。たまたま観世流を楽しんでくださっているアマチュアの方にも信者がおられて、ご相談しましたら、パウロに関する書物を5、6冊いただき、私もそこから勉強いたしました。

 林先生のお知り合いの伝道師の方からもアドバイスを受けつつ、作っていただきました。林先生は、聖書そのものが宗教書の枠を超えて一大文学作品だと仰います。特にパウロの回心などは、「非常にドラマチックな記述で、変に手を入れる必要はない。むしろオリジナリティを活かして、それを能楽という一つの作法の中に入れ込んでいったほうがいい」という力強いお言葉をいただいて、出来上がった次第です。

――オルガンで舞う場面があり大変感銘を受けました。

 オルガンの旋律と共に舞うというのは、私にとって初めての体験でしたが、やはり東洋の音楽と違って響きが深い。ただ、オルガンの残音も太鼓の「テーン」という余韻と同じく非常に重厚で、能楽の深い部分と拮抗(きっこう)できると思いました。

    

――松羽目の代わりには十字架が掲げられていました。

 リハーサルでタッカーホールへうかがったときに、天井から吊り下げられた十字架にちょうど照明が当たり、その陰影が上下左右に伸びているのを見て、このまま十字架の下で「吉利支丹能」を演じたいと思いました。会場の方からは「取り外せますよ」と言っていただいたのですが、林先生も「十字架がなきゃだめだ」と。

――合掌の形もキリスト教式に変えたそうですね。

 はい。あえて能の合掌の型の代わりに、キリスト教の所作を採り入れました。能では謡のときにお扇子を前に構えて謡いますが、教会の礼拝で聖書を拝戴したりトーチに火を灯したりする作法は、まさに能楽の世界と共通しています。

 以前、リトアニアでの公演の際に、文化大臣が楽屋までお見えになって、「故郷の教会のミサを見ているような気がした」と話してくださったことがあります。地謡8人が整然と正座して、整然とお扇子を取って、整然と謡を謡う。まさに宗教儀礼ですね、と。言葉が通じなくても、文化に感じ入る心は万国共通だと思うのです。

――イエスの役で使った能面と衣装について教えてください。

 面は「中将」という、安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した河内という人の名品です。今から450年ほど前、ちょうどキリスト教の禁教令が敷かれたころに作られました。貴公子然としていながら、とても慈愛に満ちた目をしている。貴族の男性役に使われるものですが、今回の上演が決まったときに、イエス・キリストの面はこれしかないと思いました。

 装束は、上が白地の狩衣(かりぎぬ)で、下が指貫(さしぬき)という平安時代の貴族の装束です。出現に際して、十字架にかけられたキリストではなく、すでに浄化されて天界から地上に降りてこられた姿を演じたかったのです。

 オルガンは使いましたが、面も装束もすべて能の規範の中で、いかに表現できるかというところがポイントだと思うのです。西洋風の衣装を着れば簡単ですが、やはり能楽はリアリズムを追求しつつも、最終的には抽象美を目指していますので、謡でも所作事でも贅肉を徹底して落とす。であれば、一つの完成された能装束を使うことで、もっと内側の深い世界を追求できるという思いがありました。

――今後の抱負についてお聞かせください。

 今回はキリストの役を演じたのですが、次回は聖パウロの役をやってみたいですね。意気揚々とキリスト教を迫害していた人間が、一瞬の閃光によって失明してしまう。このような設定は、能役者としてやりがいのある役なのです。

 それから、もし可能ならば、やはり神様の臨在を思わせるような、教会の荘厳な空間の中でも上演してみたいですね。実際に宗教儀礼をされる場所で、「吉利支丹能」をさせていただくことも大きな意味があると思うのです。

 能楽というと、古くて言葉もわかりにくく、事前素養として古典を読まなければ観られないという先入観があり、どうも能楽堂は敷居が高いと思われる方もいるようですが、650年の歴史を持つ日本の伝統文化なのですから、もっと気軽に触れていただきたいと思います。

――今後の展開を楽しみにしております。今日はありがとうございました。

 

二十六世観世宗家・観世清和(かんぜ・きよかず)1959年生まれ。父は二十五世宗家・観世左近。1990年に家元を継承し、室町時代の観阿弥、世阿弥父子の流れを汲む二十六世観世宗家として、現代の能楽界を牽引する。国内公演はもとより、フランス、インド、タイ、中国、アメリカ、ドイツ、ポーランド、リトアニアなどの海外公演、及び『箱崎』『丹後物狂』『阿古屋松』などの復曲、『利休』『聖パウロの回心』をはじめとする新作能にも意欲的に取り組んでいる。芸術選奨文部大臣新人賞受賞、フランス文化芸術勲章シュバリエ受章。重要無形文化財「能楽」(総合認定)保持者。社団法人観世会理事長。財団法人観世文庫理事長。一般社団法人日本能楽会常務理事。独立行政法人日本芸術文化振興会評議員。東京芸術大学音楽学部講師。著書に『一期初心』などがある。

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