カナダ映画『ぼくたちのムッシュ・ラザール』フィリップ・ファラルドー監督インタビュー 2012年7月28日

モントリオールの小学校を舞台にしたカナダ映画『ぼくたちのムッシュ・ラザール』が公開している(シネスイッチ銀座ほか全国順次公開)。

 担任の教師が教室で首を吊って死ぬ、というセンセーショナルなシーンで始まる本作。その代用教員としてやってきたのは、アルジェリア移民の一風変わった中年のラザールだった。生徒たちの閉ざされた心と向き合う移民の先生を軸に、ドラマは静かに進んでいく。本年度のアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。フィリップ・ファラルドー監督が今夏、来日した。

■きっかけは?

 戯曲が舞台化された芝居を見に行ったわけだが、ぜんぜん映画の題材を探しに行こうという気持ちは全くなく、ただただ見に行っただけ。登場人物に心を揺り動かされて、映画をつくろうと決断した。そしてきっとこの題材は、自分が見つけたのではなく、自分が見つかってしまった、という感覚。登場人物の人間味や脆さは素晴らしいと思ったし、それを映画で描こうと。

 主人公となるラザール先生は、アルジェリア人の移民ではあるが、主題の前面に移民であることが出てくるわけでもない。そして学校、学級という空間は豊かで、まるで社会をあらわすようなミクロコスモスのようなところ。このふたつがスタート地点であり、ここからもっと発展していければと願った。そうして、いろんな次元、テーマを内包した映画にできるなと。

■内省的な作品だ。主張が激しくないが、人の感情を奥深くまで迫っていく。

 おっしゃるとおり、主張が強くない、おしつけがましくないということは、自分が求めていたところだった。メロドラマが大嫌いで、感動とか感情を無理強いするのが嫌いだ。抑えた表現が好きで、やはり(観る)人間に信頼を置かなければならないと思っている。

 一番言いたかったのは、何か悲劇が起きたときにそれを乗りこえていくときの言葉、そしてコミュニケーションの力はすごいんだなということ。

 映画をつくったときは、こんなに多くの国で受け入れてもらえるということは想像していなかった。きっとこの人間的な側面、普遍的な題材を扱っている所が評価されたのだと思う。この数日間、日本のメディアの人から質問を受ける中で、死に対する痛みの扱い方、集団で死の悲しみについて話すこと、といった題材が日本人にも響いているのかなとも感じる。

micro_scope inc.©2011.Tous droits reserves

■一方では、死と向き合う姿勢を問うている作品だと思った。学校の中で、担任教師が教室で首を吊っていたというセンセーショナルな事件が起きたとき、一方ではそうした事件がなかったかのように教師たちは振舞っているが、生徒たちは戸惑いを隠せない。

 悲劇に直面したときは、反応の仕方が大きく分けて2つに分かれる。分散してしまって一人ひとりが個人でそれを通り抜けていく、あるいは集団で一緒に乗りこえていく。このストーリーに出てくる学校では、「暗黙の了解」のようなもので、子どもたちの傷を深くしないために、教師たちは、これについては話さないでおこうというようなことになっている。しかし最終的には逆に子どもたちが苦しみから解放されることがなくなってしまうという逆効果に。

 教師たちは、ドアを閉じた(教室の)空間の中で専門家に任せるのが一番いいだろうと思ってしまっているが、そこにやってきたラザール先生は、もっと自然な形で、ふつうに話すことで悲劇を乗りこえていけると信じている。より有機的な形で。

 この映画では、ある意味、死に直面したときの色々な儀式、儀礼が失われていっていることも扱っている。長い間、カナダではキリスト教会がそうした死に際しての、儀式、儀礼を独占してきた。だが近代になって社会が非宗教化されていった過程の中で、こういう儀礼がどんどん行われなくなってきている。それで皆、死に直面したときに、どのようにしたらいいのかということで新しい基準を探し求めているのではないかと思う。

死に対する儀礼が失われているということ。カナダでキリスト教の存在感が失われつつある中で、現代社会のカナダ人たちの死に対する感性は、監督自身の眼からみてどのように映っているか

 個人的な例を挙げてみるならば、子どもの頃はカトリックの信者だった。親に言われて教会に通い、少年聖歌隊にも入っていた。ただ18、19歳になって、そうすることが疑問に思えてきた。教会には通わなくなり、神を信じなくなった。そこでこれから残りの人生をどうやって自分の目標とするものを見つけたら良いか。基準を見つけたら良いのか、ということだが、ラクなことではない。より哲学的なところで探していくことになるだろう。きっとコミュニケーションというものがキーになるだろう。自分の感じたことを話すことで見つかっていくのかなと。

 そこで日本の社会のことを考えると、きっと学校の中で起きた悲劇、その苦しみに対して大きな喪失を経験した苦しみを乗り越えていくことは、隠喩のように日本の皆さんが経験された去年の大きな悲劇があり、響くものがあると思う。

昨年の震災。人が乗り越えられないような困難に出会ったときに、監督の言う人との「コミュニケーション」だけでは解決できないものもあるのと思うが……。

 まず、僕自身は神を信じていないが、それを人に信じさせようという気持ちはないし、いないんだよーということを皆に訴えたいという気持ちもない。それで、神や仏を信じている方々にも、ある意味哲学的な、超越的な力というものも信じてもらえたらいいかと思う。そうすることで苦しみも乗りこえていくこともできるのではないか、と。

 僕が認められないと思っていることを一つ述べたいのだが、どんな宗教でも、何か悲劇とか大災害が起きたとき、それについての説明を提示することなんです。「これは神の意思であったので、受け入れなくてはならない」とか。そういう説明をしてしまうのが、僕が宗教を受け入れられない理由だ。悲劇の中に意味を見出そうとしてはいけないと思う。

 実際にこの映画の最後で、ラザール先生も「このマルティーヌ先生が死んだことの意味を探そうとしてはいけない」と言っている。重要なのは、何をするのか、自分がどういう立場をとるのかを考えること。ラザールはそういう意味で、教室は勉強するところであって、お互いの友情や分かち合いを共有する場だと。悲劇が起きたときには、一緒に手をとって分かち合って友情を見出すことが大事なのかなと思っている。

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