【特別寄稿】教皇生前辞任に寄せて 「教義の人」の限界 森一弘司教 2013年3月2日

 「変化があまりに激しく、信仰生活にも難題が生じやすい現代社会において、聖ペトロの後継者として舵取りをし、福音を伝道するには、心とからだの両方の強さが必要です」と語って、教皇は、自らの体力と気力の限界を理由に、辞任を表明した。

 教皇職は、コンクラーベで選任され、本人が受諾すれば、原則として終身である。教皇が自ら辞任した例は、六百数十年も前にさかのぼる。それ以降、存命中に辞任を表明した教皇は1人もいない。したがって教皇の辞任の表明は、カトリック信者はもとより世界の人々には、衝撃的なことであった。

 「神の前で繰り返し自分の良心を糾明した」と語っているように、辞任を決断するまで教皇は、自らの良心に誠実に問い続ける時を過ごしたに違いなく、わたしはその決断には敬意を表したいと思っている者の1人である。

 教皇が辞任の理由として表明したのは、一つは、体力の衰えである。85歳の年齢で心臓に持病を抱えた身で教皇職を続けていくことは、大変なことであったに違いない。体力の衰えを理由とした辞任は、常識的には誰もが納得できるものである。

 しかし、体力の衰えという点に限るならば、前任者のヨハネ・パウロ2世も、パーキンソン病という持病を抱えながら、最後まで職務を全うした。前任者との違いは、教皇自らが言及した「心の強さ」の点にあるように思われる。教皇にとって、複雑な現代社会を生きる人々と向き合うことがかなり重圧になっていたのではないか、とわたしは推測するのである。と言うのは、教皇が、生涯「教義の人」として生き続けてきていたからである。

 第二ヴァチカン公会議の頃には、新進気鋭の教義神学者として活躍。その後も一貫して神学者として教壇に立ち、1981年、教理省長官に任命されてからは、カトリック教会の教義の元締めとしての職務を果たしてきていた。直接、信者たちと向き合う司牧の責任を担当したのは、1977年にミュンヘン・フライジング教区の大司教として赴任したわずか4年間だけである。複雑な現代社会の中でもがき苦しむ人々と直接向き合った経験は、残念ながら乏しい。

 もがき苦しみ、悲惨な状況にある人々に対する理解の不足は、さまざまな機会に表れた。たとえば、アフリカ訪問の際の機中で、コンドームの使用はエイズ根絶の解決にならないと発言。この発言からは、エイズが蔓延し、母子感染によって多くの子どもたちの命が奪われていく悲惨な状況にある人々に対する共感が伝わってこず、善意の人々の顰蹙をかった。

 また自然法と神の掟に背くという観点から避妊や同性愛者や性転換者を断罪してしまう姿勢からは、複雑な現実にもがき悩む人々や性同一性障害に悩む人々に対するあたたかな理解は伝わってこない。

 さらに14世紀の東ローマ皇帝エマヌエル2世の言葉を引用して、イスラム教の教えの一つである「ジハード」を批判したドイツの大学での発言や、ブラジルを訪問した際の、16世紀以降のスペインによる宣教には原住民の人々は感謝すべきであるという発言などから見えてくるものは、西欧を中心にしたものの見方であり、西欧とは異なる文化圏の底辺で耐え忍びながらしか生きていけない弱い立場にある人々への視点が欠けている。

 現代社会は、複雑で、実に多くの人々が、迷い、もがき、傷つき、のたうちまわるような形で生きている。そんな人々の営みを教義の枠で括り導くことは、もはや困難である。世界の至る所から、人々の悲しい叫びが、天に向っているはずである。伝統的な教義はそんな人々を慰め照らし導く力を失い、ヨーロッパの教会離れは着実に進行している。「教義の人」としての教皇の辞任の背後には、現代世界における教会の「教義」の限界があったように思われる。

 次に、教会は、教義に軸足を置いた人物を選ぶか、福音に軸足を置く人物を選ぶのか。わたしが期待する教皇は、人々の真只中に飛び込み、生きることの難しさを理解し、労苦する人・重荷を負う人に柔らかな言葉をかけ、人々と共に歩もうとしたキリストに戻って、教会の再構築にチャレンジしようとする人物である。(もり・かずひろ)

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