没後80年に問い直す新渡戸稲造 教文館『事典』刊行、佐藤全弘氏が記念講演 2013年11月16日

彼の魂の一番深いところで悲しみとユーモアが一つに

 新渡戸稲造の没後80年を記念して教文館より10月に出版された『新渡戸稲造事典』=写真。その出版を記念して、著者の1人である佐藤全弘氏(大阪市立大学名誉教授)が「ユーモアの人、悲しみの人、新渡戸稲造」と題して10月22日、教文館ウェンライトホール(東京都中央区)で講演を行った。教文館と日本キリスト教文化協会が主催したもので、110人の参加者で会場は満席となった。

 講演の冒頭、佐藤氏は新渡戸について、「彼の魂の一番深いところで悲しみとユーモアが一つになってその生涯を導いてきた」との理解を示した。新渡戸がクエーカーのキリスト者であったことを紹介し、「他の宗教に対しても心を開いて生涯交わりを結んだ」と述べた。

 同氏は新渡戸の幼少期のエピソードを紹介し、「やんちゃで、いたずらで、けんかもよくした」と述べた一方、体の弱い兄のために水を浴びて「水垢離(みずごり)」を行ったことなどを例に、「小さい頃から宗教心が篤かった」と語った。

 また、新渡戸が第一高等学校(現・東京大学教養学部)の校長を務めていた頃には、学校の近くに家を借りて、週に一度学生や卒業生を招いて質問に答えたり、面白い話をしていたとし、「新渡戸にとってユーモアとは人生の栄養であり、これがなくてはなかなか魂は成長しないと考えていたようだ」と話した。

 学生から内村鑑三との信仰の違いを問われた時、新渡戸は、「正門」ではなく「横の門」から入った、と答えたという。新渡戸の言う「正門」とは罪の赦し、「横の門」とは悲しみであり、後者が神に近付く一番大切な入口だと新渡戸は考えていた、と佐藤氏は解説した。

 新渡戸は5歳の時に父親を亡くし、9歳で母親と別れて上京。その後札幌農学校(現・北海道大学)に進学。18歳の時、卒業前に母親に会うために盛岡に帰郷したが、死亡2日後であった。その後結婚するが、生まれた子どもは8日目に亡くなった。養子をとり、小学校から大学まで米国で教育を受けさせたが、日本語の読み書きができなかった。「(新渡戸の)悲しみはわたしたちとは比べ物にならない」と佐藤氏。

 また新渡戸は、世論が戦争に向かっている時期に、米国で1年間に100回の講義を行ったが、米国人からは日本の軍閥から派遣されたと誤解され、日本に戻れば、米国人に操られているとの批判を受けた。そして戦争を避ける努力を続けている最中に亡くなった。

 新渡戸は、戦争を止めることが人類の究極の目標であり、すべての国々が協力しなければならないと話していたという。そして、そのためには、世界中に憎しみではなく、愛が満ちなければならないと考えていた。

 佐藤氏は、「新渡戸は、日本人がどこまで成長して世界の平和のために役立ってくれるかということを、今も天から見渡して期待しておられると思う」と話した。

佐藤氏(左)と藤井氏(中央)

 講演後には、同事典のもう1人の著者である藤井茂氏(新渡戸基金事務局長兼常務理事)も加わり、サイン会が行われた。同日夜には出版記念祝賀会も催された。

 また、教文館のギャラリーステラでは10月10日~31日、没後80年記念展「新渡戸稲造を知っていますか――世界が尊敬した真の国際人」が開催され、写真やゆかりの品など約60点が展示された。10代未満の子どもから80代まで、幅広い年齢層が来場した。

【メモ】
 新渡戸稲造(1862~1933)=岩手県盛岡市生まれ。札幌農学校で内村鑑三らとともに教育を受け、キリスト者になる。米国とドイツに留学し、米国人女性と結婚。国際連盟事務次長として国際的に活躍した。東京女子大学初代学長、女子経済専門学校(現・新渡戸文化短期大学)校長などを歴任した。

 

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