〝貧しいから医療拒否された〟ことへの憤り 映画『鉄くず拾いの物語』 ダニス・タノヴィッチ監督インタビュー 2014年1月25日

医療を受ける権利。それは当然のように思われるものだが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに暮らすロマの一家にとってはそうではなかった。

 公開中の映画『鉄くず拾いの物語』は、生命の危険にさらされた妊婦セナダが、保険証を持っていないために手術を受けられず、病院から受け入れを拒否されるという実話をもとにしている。鉄くずを集めて生計を立てている夫ナジフは懸命に試練と向き合い、生きることの意味を問う。本作で実際の当事者を出演させた、ダニス・タノヴィッチ監督に聞いた。

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――映画のメッセージは、主人公の「なぜ神様は貧しい者ばかりを苦しめるのだ」という嘆きに集約されていると思うが、映画化させた理由は

 なかなか自分の感情を説明するのは難しいことなので、「どういう思いで?」と訊かれると、答えられない。感情を理性で説明することはできない。けれども、ぼくは5人の子どもの父親であり、妻は流産も経験している。一人の授かった子どもの命を失うという痛みを親として経験している。ただセナダさんの場合は、流産しただけでなく、実際には描いていないが、10日間、亡くなった子どもを抱えたまま苦しんでいた。

 母として自分も死ぬかもしれないという状況に置かれたという彼らの記事を読んだときに、短期間の間にこんな不正なことがあってもいいのだろうか? と大変な憤りを感じた。これがおそらく制作のきっかけではあったと思う。

 そもそもわたしが彼らに会いに行ったときも、果たして映画をつくりたかったのかと自分が思っていたのかさえ、わからない。

 ただ会いたかったのか、そもそもどうして会いに行ったのか。ちょっとわからないけれども、一人の人間として、あるいは映画監督としてその両方として彼らに会いにいって、たとえば、皆さんも心から憤ることを目にしたり読んだときには、何らかの行動に移すでしょう? お金を持っている人ならチャリティに寄付するとかね。わたしの場合は、映画を作ることだったということ。

――医療拒否の問題は、ロマの人特有に起こっているのか。他の民族にも起こっているのか

  ロマの人特有ではない。ロマであるから医療拒否されたわけではない。貧しいから医療拒否された。保険証を持っていないから医療拒否された。

 セナダさんがもし金髪碧眼の美女だったら、医師たちは協力したかもしれないけど、僕が勝手に推察しているだけなので、実際、どうだったのかはわからない。

 今回の映画は、ロマのことを描いているつもりは全くない。だからロマ特有の話として扱っているつもりもない。むしろ貧しい人たち、システムに置き去りにされた人たちに焦点をあてた。彼らは社会保障も医療保険ももっていなかった。それだけのために家族としては、救急車の中ですら行える簡単な手術を拒否される、という理由――それで命を落とすわけだから――に憤りを覚えて作った。

 ボスニア紛争中は兵士や民間人の治療が第一に考えられていて、その他の人たちは第二次的に考えられていた。戦後、新しいシステムが一応確立されて人道主義的な助成金も入ってきた。しかしそのシステムだけで考えると、ロマの人々は、システムの枠外にある。これにはいろいろな複合的な理由がある。

 今回映画に登場するロマの家族は、彼らに言わせると、300年、この映画で描かれている土地に根付いている人々であるために当てはまらないが、そもそも、皆さんが思う「ロマ」は移住し続け、定住地をもたない人が多い。定住しないから学校にも行けないので教育水準が高くない。

 スタンプを押すのが嫌い――どこかに出向いて行って、役所や事務所で何か判を捺してもらうような行為――が好きではない。ロマの人たちは、自由でありたいという感覚がとても強い。アメリカの先住民やアフリカの民族と近い感覚を持っているんじゃないかと思う。

そういうロマの感情もあって、システムに自ら参加するよりも自由の歴史を重んずるようなところもある。

――92年のボスニア紛争のとき、あなたはボスニア軍に参加した。そこで具体的に何をしていたのか。また「ボスニアフィルムアーカイブ」を立ち上げたことについて教えてください

 紛争ぼっ発はもちろん寝耳に水だった。そのとき、大学ですでに映画について学んでいた。3年生だった。紛争が突然ぼっ発した。最初はボスニア軍というのはなかった。市民を守るために戦う警察機関があり、そこに参加した。最初は一般の警察軍で戦い、1カ月くらい経ってからカメラで撮影を始めた。当時は銃を片手に持ちながらだった。やがて、撮影に専念するようにした。そこで撮った映像は、サラエボにやってくる国際的ジャーナリストに提供していた。彼らが決して行かないような前線にぼくらが行って映像を撮っていて、それを世界に知らしめてほしいという思いからだ。そうこうするうちにボスニア軍がつくられ、また、「ボスニアフィルムアーカイブ」という映像のユニットが作られた。

 ぼくはもともと撮影していたので、当然の流れでそこに属するように。そのなかで、戦地の映像だけではなく、戦犯を裁く機関からも依頼を受け、これから審議される人たちの撮影も行った。撮れるもの、撮らなければならないものはすべて撮っていた。

 フィルムアーカイブ自体はその後、どうなったのかはわからないが、実際にハーグ(国際裁判所)でも記録映像、証言として使われている。

――映画の中で、夫婦が病院に行って帰ってくる間に、煙がもくもく出てくる工場の煙突がたくさん出てくるが、なにかの象徴か?

 あれは火力発電所。ぼくにとっては、ユーゴスラビア時代に、社会主義の勝利、労働者階級の勝利を象徴しているものであり、今はもちろんそれはすべてボスニアではなくなってしまったが、残されたものは汚い煙が出てくるだけの非人間的な構造物である、というような気持ちがある。あるいは人のことを何とも思わないシステムの象徴とみることもできる。社会主義のことを言っているのではなく、システムという大枠でとらえていただければ。

 一番の問いかけは、われわれはシステムのためにあるのか、システムがわれわれのためにあるのか、ということ。この映画で描かれている、本当に数人の人にしか「ため」にならない、ほかの人はそのシステムのために働かなければならない、仕えなければならない、そういうシステムは世界中に増えてきている。

――ナジフさんセナダさん夫妻とは今も交流は続いているのか。3人目のお子さんは、監督の名前になったと聞いているが

 彼らの3人目の息子に、ぼくの名前(ダニス)をつけてくれた。彼らと最後に会ったのは8月。去年ベルリンに2月に行ったときに、新作の撮影に入っていて、その後インドに3カ月行っていたので、ほとんどサラエボで過ごしていない。また彼らが住んでいる村というのはサラエボから車で4時間くらいかかるので、なかなか会うのに時間がとれなかった。

 でも先週、スロベニアで上映が行われたときに、僕がいけなかったから、ナジフさんが行ってくれたりもしている。友だちか、と問われれば、ぼくは友だちが少ないんだ。知人は多いけど。でも彼らのことは大好きだし、これからも付き合っていくと思う。

――ナジフさんが戦争のことを話す場面があるが、何軍で戦闘していたのか。また、そのことについて話し合うことはあったか?

 ボスニア軍。紛争についてはしょっちゅう話す。当然だろう。20年経った今でも「present」だ。現在形である。そこに存在している。どうしても普通に出てくるし、どこの前線で戦っていたのか、ということも普通に出てくる。

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