イエスと共に「いのち」を大切に キリスト教再定義に向け、荒井献氏が講演 2014年6月14日

 新約聖書学者の荒井献氏が、「キリスト教とは、一般的に、『イエスはキリスト』と告白する信仰を共有する宗教と定義されるが、新約聖書学の視点から、キリストが元来人間の命を大切にすることを具現して生きた存在であったという方向性に向けて、再定義される必要がある」と、5月31日、恵泉女学園大学(東京都多摩市)の講演会で主張した。同大学の学長も務めた同氏だが、同大学でこのような主張をするのは初めてと言う。講演会は、「恵泉スプリングフェスティバル」のプログラムの一つとして、同大学キリスト教文化研究所(李省展所長)の主催で行われた。120人弱が出席した。

 「キリスト教の再定義に向けて――新約聖書学の視点から」と題して講演した荒井氏は、キリスト教が「『イエスはキリスト』と告白する信仰を共有する宗教」と定義されることについて、「この定義には多くの場合、イエスははじめから『神の子』であったという信仰によって信仰者たちの振る舞いを基礎付ける方向性が前提されている」と述べた。

 同氏は、新約聖書学で定説になっている「二資料仮説」(マタイとルカは、①マルコ福音書と②イエスの語録集《Q文書》を資料として、彼らに独自な視点から福音書を編集した)を前提として、そこから「福音書記者の編集意図」(前提資料に対する各福音書記者の編集作業を通して、彼らに固有な編集意図とそれに基づくキリスト理解の多様性を明確化する)が問われるとし、キリスト理解の多様性の実例として「麦穂摘み」(マルコ2・23~28/マタイ12・1~8/ルカ6・1~5)の物語を取り上げた。

 同氏の解説によると、マルコ2・27の「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」について、安息日は元来、人間の命の休息のために定められたのであり、人間が安息日律法のためにあるのではない。律法は国法として機能していたが、「人間の命は国家によって拘束されない」。28節「だから、人の子は安息日の主でもある」の「人の子」はイエスの自己呼称として用いられ、「イエスは人間の命を大切にし、それを具現して生きた存在」であり、「イエスの権威は、人間の命の尊厳によって基礎付けられている」。

 ルカの場合はマルコ2・27のイエスの言葉を削除し、「『人の子』としてのキリストの権威がキリストに従う者たちの振る舞いを基礎付けている」。

 マタイの場合はマルコ2・27を削除し、マルコにもルカにもない5~7節を挿入して、「人間の命の大切さを、人間に対する『人の子』の『憐れみ』によって基礎付けている」。

 同様に、「片手の萎えた人」(マルコ3・1~6/マタイ12・9~14/ルカ6・6~11)、「空の鳥、野の花」(マタイ6・25~34/ルカ12・22~32)についても比較した。

   

 その上で、「キリスト教において信仰告白の対象となっているキリストは、元来、人間イエスである」とし、「このイエスは、力なき者・病む者と同じ地平に立ち、命を賭けて彼らを苦しみから解放し、彼らに解放の主体として生きることを促した。人間は、自然と共に生かされて在る。同時にイエスは、自然と人間の命の尊厳を奪い尽くして、差別や偏見を甘受させるような政治権力や宗教的権威に対しては厳しい現実批判の振舞いに出た」と強調した。

 そして、「イエスに対する『神の子』(キリスト)信仰は、イエスのこのような振る舞いの結果としての十字架死によって基礎付けられている」と述べ、「イエスははじめから本質的に『神の子』であったという信仰によって彼の振る舞いを基礎付ける方向性は、すでにマタイやルカ福音書に見出される。この場合、イエスによる現実批判は後景に退く」と主張。「キリスト教の方向性には、福音書が成立した原始キリスト教の時代から多様性があった」と語った。

 最後に、自身の見解として、同大学の建学の精神である「聖書」「国際(平和)」「園芸(環境)」が目指すキリスト教の方向性について、「イエスと共に自然と人間の『いのち』を大切にする、キリスト教の再定義の方向と重なるのではないか」と主張した。

 

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