赤木善光氏インタビュー 〝儀礼の底に宗教意識〟 2015年6月20日

神学者としての歩み振り返る 「もう少し視野を広げれば……」

 東京神学大学で教鞭をとり、齢85を超えて、未だ学問研究への情熱は衰えることがない神学者。この間、日本基督教団の現状、「東神大紛争」、聖餐論争をめぐって、独自のスタンスで問題提起を続けてきた赤木善光氏にインタビューする機会を得た。牧師養成の最前線を退いた教会史家は、いま何を思うのか。

      ◆

埋まらない溝 根本的な違い

――いわゆる「東神大紛争」から、40年以上経ちます。

赤木 「東神大紛争」については、機動隊導入が一方的に批判されていますが、その理由となったバリケード封鎖についてはほとんど語られていません。学生による封鎖こそが機動隊導入の原因となった「暴力行為」です。デモと同一視する人がいますが、両者は根本的に異なるものです。封鎖によって学生は学業ができなくなり、教職員は職場に入ることができなくなりました。この事実を重視すべきです。

「説教のみ」は本来の礼拝ではない

――聖餐の問題をめぐる溝も依然大きいですね。

赤木 同じ宗教改革者でも、ルターとツヴィングリでは聖餐の理解が異なります。ルターは、いかにして神の恵みを受けるかに重点を置いている。自分の救いの根拠を知りたいというのが、ルターの根本的な神学的動機なんです。ところがツヴィングリの場合は、そのことは問題にならない。救いの確信はすでにあるのだから、あとはいかにして生きるべきかと言うわけです。もちろん改革派もルター派の影響が強いので、ルター的な課題もありますが、どうしても行動や倫理の方に重点がかかってくるわけです。私自身は改革派に属していますが、自分の中にはルター派的なものが強いと思っています。

 ですから、教団内の「違い」について議論をしてもなかなか合わないと思うんです。根本が違いますから。ルターとツヴィングリが和解できなかったように、論争してもかみ合わないですよ。

――根本的な信仰の捉え方の違いが、たまたまその時々の課題として浮き彫りになったにすぎないと。

赤木 現在、日基教団の中には、個人主義的・自由主義的に思索する哲学的神学者や実在論的神学者がいますが、その源流の一つは赤岩栄の問題です。赤岩の主張を徹底していけば、聖餐なんかいらないという「聖餐不要論」になる。み言葉の宣教を中心に据えれば、説教さえあればいいと。さすがにそうは明言しませんでしたが。その問いに対する答えが、旧日本基督教会の中では出ていなかったし、今も十分には答えられないと思います。わたしもその問題にぶつかった時に、答えがなかったんです。考えてみれば、原始教会の礼拝では必ずパン裂きがあった。もし原始教会が基準だとすれば、説教だけの礼拝は、本来の礼拝とは違うと思うんです。

神学の課題 伝道の課題

――最近は日本伝道の課題について考えておられるそうですが。

赤木 自分自身の歩みを考えますと、もう少し視野を広げれば良かったという反省があります。狭くなければ深められませんので、専門的にはそうなってしまいますが。日本で伝道する場合、日本人の宗教心を知る必要があるという観点から、今は神道や仏教を勉強しています。日本の牧師たちは、日本の宗教をあまり勉強してこなかった。やはりもう少し、我々牧師たちは冷静に、あるいは客観的に、神道や仏教のことを勉強しなくてはならないと思います。急に明日から役に立つというものではありませんが、長い目で見て必要ではないでしょうか。

 それは、日本人にどんな問題があるかを知るためです。いちばん典型的な例が、靖国問題です。靖国問題の根本は神道にあると思うんです。ただ憲法違反だ、政教分離だと言うだけでは通らないし、彼らも納得しません。神道の人たちは、「日本人だから靖国神社は当然だろう」と言うわけです。そういう論理はキリスト者にはなかなかわかりませんが、知っておく必要はあると思うんですよね。

 前述の哲学的神学者たちは、あまりにキリスト教を思想的に捉えすぎているんです。また、仏教や神道と対話すべきだと主張しますが、そう簡単にはいかないと思っています。彼らは教義や教理を閉鎖的だと言って嫌うんですが、僕はもう少し、それらの持つポジティブな面を知ってほしいと思います。個人の主体性を重んじることは大事ですが、それだけが宗教ではない。思想だけで宗教は成立しない。共同体や儀礼が不可欠です。

 儀礼の底には、必ずしも教理として明文化はされないけれど、人間の深いところでの宗教意識があるんです。その根本の宗教意識を捉えなければ、宗教を把握できないと思うんですよ。

――以前、オウム真理教についても関心があるとうかがいました。

赤木 今日、国内で元気のある宗教は、オウム真理教(現アレフ)と創価学会です。なぜかと考えると、リファインされた宗教ではなく、もう少し実感的な、感覚的なものが彼らにはあるからです。そこに若い人々は惹かれるんですよ。単なる教義以上のものを彼らは欲している。オウム真理教があれだけのことをして、なぜ今も若者を惹きつけるのだろうと。何かあるとは思うのですが、それが説明しにくい。

 創価学会の強みの一つは、座談会と実際の生活を助け合うグループ活動です。困っている人がいると、彼らは具体的に助け合う。それが集まって力になるんだと思います。創価学会は、ただ日蓮聖人の教えを伝えるだけでなく、実際に共同体による助け合いを実践している。そこに人々は魅力を感じるんじゃないかと思います。教会も、何かしら教理以外の共同体的な力がなければならないと思います。

――ありがとうございました。
              (聞き手 松谷信司/協力 沼田和也、東京神学大学)

あかぎ・よしみつ
 1929年福岡生まれ。九州大学文学部哲学科卒業。東京神学大学大学院修了。東京神学大学名誉教授。『宗教改革者の聖餐論』『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか』『イエスと洗礼・聖餐の起源』(いずれも教文館)など著書多数。

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