「キリスト教と人権思想」 教会が社会担う人間を生み出す 森島豊氏(青山学院大学准教授)に聞く 2015年8月8

 現行の日本国憲法は米国からの押しつけだとする主張があるが、GHQ草案は憲法学者の鈴木安蔵が作成した憲法草案を参考にしたと考えられる。青山学院大学総合文化政策学部准教授の森島豊氏は、論文「日本におけるキリスト教人権思想の影響と課題」の中で、鈴木を始めとして、日本で人権の理念が法制化していく過程にキリスト教の影響があったことに着目している。この論文がこのほど中外日報社主催の第11回「涙骨賞」最優秀賞に選ばれた。

「キリスト教と人権思想」というテーマに取り組む理由や今後の教会の課題について、森島氏に話を聞いた。

自民党改憲案への危機意識

 憲法の問題や、日本の政治的な動向に対して危機感を持ったのが2013年でした。「押しつけ憲法論」が社会の中で大きく取り上げられる中で、自民党の『日本国憲法改正草案Q&A』を読みました。すると、憲法97条を全文削除すると書いてあり、その解説がなかった。自民党政権は、このような憲法にしようと提案して選挙に臨み、勝ったわけです。「この後恐ろしいことが起こるのではないか」と感じました。ここから憲法の制定史についてよく知ろうと、研究を始めたのです。

 その時に関心を持ったのが、鈴木安蔵という存在でした。鈴木はプロテスタントの家庭に育ち、幼少期に教会に通っていました。そして、岳父(妻の父)である栗原基を介して吉野作造と出会います。

 キリスト者である吉野作造は「明治文化研究会」を発足させ、『明治文化全集』をまとめますが、鈴木はその中の起草者不明の私擬憲法「日本国国憲按」に出合います。起草者を探る中で、これが植木枝盛によるものだとわかるわけです。植木がどこで活躍していたのか調べていくと、高知教会であることがわかりました。

潜在的なキリスト教の影響

 ここでわたしは、表面的には見えないけれども、潜在的にキリスト教的な考え方が各人物に影響しているのではないかと思ったのです。これが、ドイツの法学者ゲオルグ・イェリネックにつながります。イェリネックは人権の起源がフランスではなく米国にあり、しかもそれは遡るとピューリタンたちの運動にあり、さらに遡ると思想的には宗教改革、カルヴァンに遡ると言いました。わたしはこれが米国で止まらずに、明治期の日本にも入ってきて、思想的に影響を与えたのではないかと思ったのです。

 そこで家永三郎氏(東京教育大学名誉教授)の研究を手引きとして植木枝盛を研究していきました。そこでわかってきたのは、植木がアメリカ独立宣言に注目し、「抵抗権」に感心しているということ。彼は言論の自由、思想の自由が失われていくことに対して激しく異を唱えるのですが、その根拠・動機がアメリカ独立宣言です。

 独立宣言をよく読むと、そこにはやはりキリスト教の聖書に基づく信仰、「聖書の創造主の前では人間は皆平等だ」という考え方がある。植木が関心を示したと思われることの一つは、この「抵抗権」の根拠なのです。その根拠を彼は思索していく中で、キリスト教に関心を示し、その中で「日本国国憲按」を起草していったのだと考えられます。

 それを吉野作造は『明治文化全集』に収め、鈴木安蔵が発見するわけです。鈴木がなぜ「日本国国憲按」に心ひかれたかというと、「抵抗権」が入っているから。これを日本人が書いているということに心ひかれていく。つながっているのは「抵抗権」なのです。

 自覚はしていなかったと思いますが、潜在的にキリスト教の思想、キリスト教の人権観が影響し、鈴木の書いた憲法草案がGHQの考え方とも一致して、これが日本国憲法に反映されていったのだと思います。

 もちろん日本人があの当時、外国の力を借りないで自分たちでこうしたものを作れたとは思いません。けれども、その成立の過程の中に日本人の主体性がなかったかというと、そうではない。日本人が人間らしい生き方をしようと思った時に認めた価値観や考え方が入っており、それが影響して今の形になっている。だから日本人の主体性が反映されていると言っても過言ではないのです。

 なぜそう今も言えるかというと、日本人は憲法が大事だと今も言っているからです。自分たちが受け入れている限りは自分たちに受肉しているようなもの。これが、わたしが大事な視点として紹介したかったものです。

贖罪論とキリスト論

 研究する中で一つの問題意識を持ちました。わたしが取り上げた3人とも教会から離れるか、正統的キリスト教信仰からずれるようなところへ行くのです。

 鈴木は大学に入り、マルクス主義の影響を受け、教会から離れていきます。研究者たちが振り返ってキリスト教的な影響だったと思えたことの一つは正義感、要するに「抵抗権」です。ところが鈴木は教会から離れている。

 植木も教会から離れていきます。高知教会との結び付きは残るのですが、表面的なもので、彼の内実はむしろ仏教へ傾いていく。「抵抗権」では神が根拠になりますが、植木はその神につまずくのです。

 贖罪論とキリスト論がうまく結び付かないことが日本の教会の課題です。「贖罪信仰の要となるイエス・キリストとはどなたか」と言った時に、「まことの人、まことの神」とはならないのです。「人間イエス」で終わってしまう。

 今回の受賞論文のもとになった青山学院大学紀要にわたしが発表した論文は、次の言葉で結んでいます。「したがって、日本の人権形成において求められることは、『宗教的確信というエネルギー』を齎すところの贖罪信仰に基づく神学的考察と、それと不可分な新しい人間を創造する原点と拠点としての教会形成であると言えるだろう」

 キリスト論に基づく贖罪信仰と教会の形成という二つが日本の教会の中で崩れるわけです。そのことを教会の課題として持たなければいけないと思ったのです。

「公共の福祉」を育む

 これは教会の課題であっても社会の課題にはなれない。キリスト教国では教会の中で「抵抗権」を育んできましたが、国家や社会は教会ではない。今の社会ではそれができないのです。

 そこでわたしが考えたのは、人権の概念としての「公共の福祉」ということです。「公共の福祉」とは、人間らしく生きることを保障すること。これを最高の文化価値として教育する必要がある。この考え方は、ピューリタンの1人ジョン・ミルトンが言ったものです。

 今まで「人権」は運動としては継承されなかった。それは抵抗する根拠や、人権の思想的基盤となるものを持っていないから。そういう価値観を育んでいないからです。これを教育が担おうというわけです。重要な存在は私立の教育機関であり、中でも「公共の福祉」を育めるのは、キリスト教主義学校でしょう。

教会形成から社会形成へ

 社会の問題に教会がどう取り組んだらよいのか、ということが課題です。つまりそれを取り扱うことのできる神学がない。教会としてもまだ成熟していない。過渡期なのです。過渡期に、キリスト教的エートスがある米国やヨーロッパで育まれたものを、そのまま日本に植え付けようとするからうまくいかない。教会形成から社会形成へ。これがうまくいかないことが日本の教会の課題です。

 社会を担う新しい人間を生み出す場所は教会なのです。教会がそのような新しい人を社会に派遣していくのです。教会は社会活動を担うことはできないけれども、社会活動を担う人間を作り出すことができる。それが「福音を語る」ということ。それが今の日本ではできない。

 人権の問題も同じです。人権を担う人間が少ない。人権運動の形成を担う人がいない。それをどこが輩出するか。一つは歴史的に言えばキリスト教会です。これが日本の教会の課題であり、広く長く見れば日本の課題になっていくのです。

メモ
 涙骨賞=人間の精神文化に関わる論文を年に1度、中外日報社が公募するもの。最優秀賞授賞は今回が3年ぶり、5作品目。同社は宗教新聞「中外日報」を発行し、仏教を中心に宗教界の情報を発信している。

 

 

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