上智大学キリスト教文化研究所聖書講座 カトリックとルター派、一つになれない理由ない 2015年12月12日

 宗教改革500年を迎える2017年を前に、上智大学キリスト教文化研究所はカトリック東京大司教区との共催で、「ルターにおける聖書と神学」をテーマに、2015年度聖書講座を11月14~15日、同大学(東京都千代田区)で開催した。内藤新吾(日本福音ルーテル稔台教会牧師)、竹原創一(立教大学名誉教授)、吉田新(東北学院大学講師)、川中仁(上智大学教授・副学長)、鈴木浩(ルーテル学院大学教授)の5氏が講師を務めた。2日間で延べ174人が参加した。

 内藤新吾氏

 「二つの領域を生きる私たち――いわゆるルターの二王国論を巡って、脱(反)原発に携わるルター派牧師として」と題して講義した内藤氏は、「日本のルーテル教会では、社会的な問題に関わる人が非常に少ない」と話し、その原因としてマルティン・ルターのいわゆる「二王国論」が誤った形で解釈されているからだと指摘。神は教会と国家という二つの権威領域を設定し、人間はどちらにも従順でなければならないとする「二王国論」は、ルター派の権力追従の姿勢を生み出し、ナチスに迎合する要因にもなったとする主張を紹介した上で、その分析と評価を検証した。

 まず、第二次世界大戦までは戦争に対して疑問を持つことがなく、人命、人権が軽く扱われていたという時代的な限界を指摘し、ルターを断罪することはできないと主張。また、ナチスに抵抗した人々の中にもルター派の人々がいたことに言及。ルターは二元論を説いたのではなく、「二王国統治論」という呼称がより正確であると論じた。

 その上で、「キリスト者もこの世にある限りこの世に責任がある」としたH・ディームのルター解釈を倉松功氏が著書の中で評価していることに賛同。「この世のことは政治に任せておけばよい」という牧師や信徒の主張に対しては、「クリスチャンが増えれば増えるほど他人任せになり、国は悪くなるのではないか」と疑問を呈した。

 また、ウルリッヒ・ドゥフロウが著書『神の支配とこの世の権力の思想史』の中で「二王国統治論」を「神の国とその二つの統治とが悪の支配に対して戦っているという教え」と定義していることを紹介。神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することの二つがルターの「二王国論」の真髄であるとし、「神とこの世に対して真剣に向き合って責任を果たしていくこと」を強調した。

 竹原創一氏

 「ルターの聖書解釈方法の特質――文字的意味と転義的意味」と題して講義した竹原氏は、聖書学者としてのルターに着目し、その第1回詩編講義(1513~15年)と第2回詩編講義(1519~21年)を比較。

 第1回詩編講義においてルターは、伝統的な四重義(文字的、転義的、比喩的、天上的意味)解釈を受け継いだが、ルターの場合の文字的意味とはイエス・キリストを指し示しており、聖書の文字を各人の生き方、信仰で受け止めるように論じていることから、文字的意味と転義的(道徳的)意味の二つを強調していると解説した。

 一方、第2回詩編講義でルターは、詩編を文法、修辞学、歴史学などを通して学問的、客観的に研究するように変化し、あらゆる学問を駆使して聖書が伝える一つの意味を明らかにしようと努めたことを紹介。聖書と取り組むことに生涯をささげたルターの姿を浮き彫りにした。

 吉田新氏

 吉田氏は、「ルター訳聖書と現代ドイツ教会――伝統の継承か、刷新か」と題して講義。1522年に刊行されたルター訳聖書は、これまでに3度公的な校訂が行われ、2017年にドイツ聖書協会による新たな校訂版が出版される予定だという。

 ドイツの人々がルター訳聖書にこだわる理由について、同氏は自身の見解として、「ルター訳聖書を継承することが、ドイツのプロテスタンティズムを継承することとイコールでつながっている部分があるのではないか」と主張。17年の新しい校訂版も根本的な改訳ではないとし、「ルター訳聖書の精神は粛々と継続されている」と説明。17年版の内容が、①最新の正文批評に基づいたテキストに合わせる、②必ず必要とされる新しい聖書学の知見を盛り込む、③今まで知られていた言葉の響きを可能な限り保持する、という指針に基づいていることを示した。

 一方で、政治的・社会的差別に関する言葉を公平な表現に置き換えることを目的とした「公平訳」が06年にドイツの一般のキリスト教出版社から刊行されたことに注目。解放の神学、フェミニスト神学、ユダヤ・キリスト教の宗教間対話を重んじ、その研究成果を踏まえた聖書翻訳であることを解説した。ただし、敷衍訳すぎることと、イデオロギーに左右される訳文を打ち出していることから、ドイツの教会では批判的な意見があることも指摘。個人的意見として、「もしかしたらルター訳の役割が終わる時期もあるのではないか」と語った。

 川中仁氏

 イエズス会司祭でもある川中氏は、「キリストの福音の伝承――『聖書のみ』と『聖書と伝統』の対立を超えて」と題して講義。

 同氏は上智大学で教会論を担当する中でルターの著作に触れ、その知性の強じんさに感心し圧倒されたと話し、ルターにおける「聖書のみ」について、ルター派でない者が安易に触れることはできないとして、新約聖書における「伝承」という言葉と、ローマ・カトリック教会の公文書における「聖書と伝統」の立場を紹介。

 聖書と伝統という二項的理解のもとにどちらが優位かを議論することは意味がないとし、大事なのは源泉にあるキリストの福音であり、聖書と伝統は伝承機能において一つのものであると解説。また、「教会を媒介とする神の自己譲与としての伝承」という理解が教会公文書の中から浮かび上がってくるとし、そのようなものとして伝承を考えなければいけないと主張。「(『聖書のみ』と『聖書と伝統』の対立を超えて)ローマ・カトリック教会とルター派が一つになれない理由はもうない」と結んだ。

 鈴木浩氏

 「ルターにおける『つまずきの石』と『神学的突破』」と題して講義した鈴木氏は、ルターが第1回詩編講義の中で31編の「あなたの義によってわたしを解放してください」というテキストにつまずいたことを紹介。深刻な罪意識を持っていたルターは、悪、罪、不正を許さない神の正義によって、どうして罪人の「わたし」が解放されるのか理解できず、「神の義」について徹底的に考察したという。

 同氏は、ルターの「十字架の神学」とは「通り過ぎて背中しか見せない神」の神学であり、背中とはイエス・キリストの十字架の苦難と死であると説明。そこに至るためにルターが突破しなければいけなかった壁が「神の義」という言葉であり、ルターの理解が「神が愛と憐れみによって罪人に与えてくださる義」という理解に転換したことを解説した。

 ここからルターの信仰義認論が形成されていくが、当時のカトリック教会と対立した要因は、「信仰義認論を教会のあらゆる教義、伝統を再検証するリトマス試験紙のように使ったこと」にあると説明。1999年、バチカンとルーテル世界連盟(LWF)の代表が「義認の教理に関する共同宣言」に調印したにも関わらず両教会の間には考え方の違いがあるとし、一番大きな相違点は、「信仰義認論を他の教理を検証、再検討、再吟味する手段としての『使い方』の問題」だと、自身の見解を述べた。

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 上智大学キリスト教文化研究所の竹内修一所長によると、今年の聖書講座のテーマをルターにしたのは、2017年に宗教改革500年を迎えることと、ルターがギリシャ語からドイツ語に翻訳した「ルター訳聖書」を同大学が昨年購入し、今年4月に公開したことがきっかけ。同聖書は1560年に刊行(装丁は1674年)されたもので、「フォイエルアーベント聖書」と呼ばれ、今回の聖書講座でも特別に公開された。5人の講師のうち4人がプロテスタントであることについて竹内氏は、「プロテスタントの先生たちから学びたい、コミュニケーションを取りたいという思いがあった。皆さん初めてお会いした方だったが、いろいろな先生方を招くことができた」と本紙に語った。

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