続く余震に募る不安 熊本、大分で震度7 2016年5月7日

 4月14日、16日に熊本県益城町などで震度7を記録した熊本地震。大分県も含め、広い地域で震度6弱以上の強い揺れも7回を数えるなど、未だ予断を許さない状況が続いている。これまでに49人が亡くなり、南阿蘇村で起きた土砂崩れにより1人の行方が分かっていない。発生から10日以上経ち、滞っていた物資の流れが回復しつつあるものの、現在も4万8千人に上る人々が避難所での生活を余儀なくされている。現地からの報告を掲載する。(関連記事3面)

 4月14日午後9時26分、多くの人々がようやく1日の疲れを癒そうとする時間、突然、下から突き上げるような大きな衝動があり、すぐに大きな横揺れが始まった。

 後から気象庁による緊急地震速報が発せられたが、その時にはもう立っていられないほどの揺れが続いていた。建物がギシギシときしむ音、家財道具が倒れ、食器が割れ、生活用品のほとんどが無残に散乱した状態となった。気象庁は、この地震がマグニチュード6・5、震源地である熊本市に隣接する益城町で震度7の激震であったと発表した。

 大きな公園や学校のグラウンドなど周囲に建物のない場所への避難が続き、熊本市の中心部にある白川公園では避難してきた人々があふれた。わたしが所属する九州学院のグラウンドにも避難してきた人々が集まり、寮生たちが自分たちの布団や毛布を提供し、余震が続く中で不安な一夜を過ごした。

 翌朝には寮から避難してきた人々への炊き出しが行われ、「お互いの配慮と助け合い」、それがこの夜の姿であった。

 次の日、余震が続いていたこと、交通機関が寸断されたことや被害状況が正確につかめなかったこと、教職員や生徒の安否確認が必要なことから、学校を休校し、安否確認と学内校舎の被害状況を調べ、今後の対応策と避難者受け入れについての方針を練り、早速復旧へ向けての案を考え始めた。この地震で熊本市と益城町で9人の方が亡くなられたが、学校関係者に人的被害がないことが確認された。

 しかし、そこに決定的な破壊をもたらす2回目の地震が襲った。4月16日午前1時25分ごろ、マグニチュード7・3、益城町と西原村で震度7を計測する激震であった。前の地震の後片づけや対応で疲れて横になろうとしていた時、前回と同じように、突然激しく突き上げられるような衝撃があり、続いて激しい横揺れが起こった。すぐに他の地震も続いたために横揺れの時間が長く、前回の地震で傷んだ建物や山の斜面に決定的な破壊をもたらした。

 熊本のシンボルであり重要文化財である熊本城も、前回の地震では天守閣の屋根瓦が崩落するだけであったが、この地震ですべての屋根瓦と城壁が崩れ、城を囲む四つの櫓も崩壊した。多くの建物が全壊や半壊、もしくは住むのに危険性を覚えるようになり、特に震源地となった益城町や西原村では家屋の倒壊がいたる所に見られた。

 また、南阿蘇では崖崩れが起こり、家屋が土砂に流され、多くの犠牲が出てしまった。この地震によって、先の地震と合わせて49人の方が亡くなり、今も1人が行方不明である。その中には、わたしの親しい知人もおり、ただただ祈るしかない。

 学校の校舎も大きな被害を受け、毎朝礼拝をしていたホールの天井は落ち、中学校の校舎は使用不能の状態となった。学校では教職員の協力で避難をされた方々を受け入れ、教職員・生徒の安否確認を続けると同時に、今後の対応策を検討する日々が続いた。避難所で過ごしている生徒もおり、教師の中で家が全壊や半壊の被害を受けた方も多数いる。

 市内全体で、ライフラインもまだ完全には復旧していないし、今も余震が続く状態で、避難生活も長期化しているが、お互いに声を掛け合って「今日一日」の生活が織りなされている。

 しかし、「落ち着いて信頼しているならば力を得る」というイザヤ書の言葉のとおり、できることや為すべきことを為し、授業や学校活動の再開を目指して日々を過ごし、生徒の精神的ケアーなども考慮しながら、5月の連休明けには何とか授業が再開できるような方向で進んでいる。一つひとつの回復、それが現在為すべきことである。(九州学院チャプレン 小副川幸孝)

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