3・11を聖書学の見地から研究 福嶋裕子、大宮謙、左近豊の3氏がシンポ 2016年8月6日

 今年3月、青山学院大学総合研究所叢書『3・11以降の世界と聖書――言葉の回復をめぐって』(日本キリスト教団出版局)が刊行された。

 これを記念し、著者である福嶋裕子(青山学院大学准教授・宗教主任)、大宮謙(同)、左近豊(日基教団美竹教会牧師)の3氏を迎えて7月1日、「苦難と不条理の中でいかに聖書を読むか」と題するシンポジウムが日基教団美竹教会(東京都渋谷区)で行われ、約60人が参加した。同シンポジウム実行委員会が主催し、青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究部、日本キリスト教団出版局が共催した。

 まず「伝わらぬ苦しみを抱えて――哀歌の場合」と題し、左近氏が登壇。未曾有の出来事に遭遇した時に、人は痛みを表す言葉を持たないと主張。広島で被爆した文学者の大田洋子氏が著書『屍の街・半人間』で、被爆した広島を人々は皆地獄と言ったが、新しい描写の言葉を作らなくては、とても表現できるものではなかったと述べていることを紹介し、「言葉に長けた文学者でも、言葉の欠乏と崩壊を感じ取った」と説明した。

 また左近氏が宮城県東松島市に行った際に出会った、ある病院の看護部長の体験を紹介。彼女は津波で夫と子ども2人の家族3人を失った。京都の実家に帰ると両親や周囲は暖かく迎えてくれたが徐々に息苦しくなり、結局は宮城に帰った。同じ痛みを味わった人々の間では「おはよう」のあいさつの背後にも、皆失ったもの、言葉にならない嘆きを抱えている。それが救いとなったと述べたという。

 同氏は、「哀歌はさまざまなうずきや痛みの語彙が豊富。異常な目に遭った人は『他者も同じ目に遭ってほしい』と思ってしまうが、それは痛みが共有されないことの悲しみから来る感情で、哀歌3章にもそのような内容がある。このような嘆きの言葉を教会は排除しないでほしい」と訴えた。

(左から)福嶋、左近、大宮の各氏

 次に「苦しみと奇跡物語のはざまで」と題し大宮氏が登壇。同氏は3・11以降、マルコによる福音書4章の、イエスの嵐静めの場面が大学で講義しにくくなったと吐露。学生の中に津波の経験をした人がいるのではないかと気を揉んでしまうと述べた。

 3・11のような未曾有の出来事が起こる世の中にあって、イエスの起こす奇跡物語をどう捉えていけばよいのかと提起。同氏は、イエスの起こす奇跡が現実で切実に奇跡を願う人々の前では働かないことから、奇跡物語と現実の間にはギャップがあると主張。奇跡が起こらない現実を受け入れるために、「奇跡物語を否定する」「社会や時代などの第三者のせいにする」「因果応報的に自己のせいにする」「神のせいにする」などが挙げられるとし、結論として奇跡も災害も神の関与のプラスとマイナスと捉えることができるのではと提言。いくつかの可能性の中で、置かれた場において神に問い続ける道もあるのではと問い掛けた。

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 玄海原発30キロ圏内の佐賀県唐津市出身の福嶋氏は、福島の事故と避難は他人事ではないと発言。「広島や長崎、3・11は、原爆だろうと原発や津波だろうと多くのいのちが一度に失われた出来事。『死者』というものを聖書からもう一度自分なりに読んでみたい」と述べた。

 またヨハネの黙示録を例にとり、「当時の皇帝崇拝とは偽りの平和と繁栄でしかない。それは現代の、原子力があるから潤うことができるという考え方と似ている。『我々は何に頼っているのか』という疑問を持って『皇帝』や『原発』の奥に潜むものに光を当てなくてはならない」と訴えた。

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 『3・11以降の世界と聖書――言葉の回復をめぐって』は、前述の3人の登壇者と、スコット・ヘイフマン氏(英セント・アンドリュース大学神学部教授)の共著。「3・11を聖書学の見地から研究する」という目的で青山学院大学総合研究所のプロジェクトが2012年4月に始動し、その3年にわたる研究活動の成果が書籍化された。

 出版の目的を福嶋氏は同書のまえがきで「聖書の視座を明確にし、震災の記憶を注視し、被爆の脅威という未来に警鐘をならすものでありたい。聖書の伝承と物語によって、現代の危機に言葉を回復する試みでもある」と述べている。

 災いの際の神と人間の苦難の役割、サバイバル文学として哀歌を読む提案、自然災害に立ち向かうイエスの姿の釈義、黙示録における死者を希望への橋渡しと見る発見など七つの章から本書は成る。4氏の論述の前に、3人の被災者の記憶と証言を記載している。

 

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