【教会の彼方】 危機の時代にキリスト者として立つ(4)濱口愛 「対話」生まれる環境の創出を 2016年8月13日

 戦後70年を経て岐路に立つニッポン。参議院議員、そして東京都知事を選ぶ大きな節目を越え、なおも混迷する政治情勢の中、今年も灼熱の〝8月15日〟を迎えようとしている。世界では米大統領選やイギリスのEU離脱に象徴される排外主義の台頭が目覚ましい。教会と国家、信仰と政治をめぐっても、さまざまな言論が飛び交ってきたが、憲法が掲げる理想の平和像とは程遠い現実が横たわる。この夏、一人の牧師、信徒、有権者としての素朴な声を集めてみた。教会の次代を拓く若者たちは、その「彼方」に何を見る――。(本紙・松谷信司)

 勤務校が敗戦50周年にあたって発行した『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』を、改めて襟を正すような気持ちで読み返しました。神と隣人とを愛するように教えられた信仰を歪めてまで国家に忠誠を尽くし、個人の権利が剥奪され、隣国を侵略する戦争に加担させられていく。神のもとに自由な存在である個人が完全に支配されてしまった時代があったという事実を考えると、先の見えない不穏な時流の中で、キリスト教学校という職場で、自分はキリスト者としてどう生きるべきかを問われ、試されていくのだという気がしています。

 政治は、この世に暮らすわたしたちの信仰生活に深く関わってきます。明らかに聖書の教えとは逆行する危険性をはらんだ政治の流れに対し、キリスト者として「NO」と表明せず、実態を知ることや議論を避けて、政治家のために祈るだけでは、それらの問題に目をつぶることと同じではないかと思います。

 これは牧師や信徒の隔てなくキリスト者一人ひとりについて言えることで、シンプルにただ十字架のキリストを仰ぎ見れば、今どうあるべきかという答えは自ずと出るのではないでしょうか。

 戦争を回避して平和をつくり出すために、まずは知ることが欠かせません。以前勤めていた大学で、タイのフィールドワークプログラムをコーディネートしていた時、引率する学生たちを必ず泰緬鉄道に連れていきました。泰緬鉄道の建設には「枕木一本、人一人」と言われたほど犠牲者が出ましたが、日本史の教科書には「……鉱山労働への強制動員も行われた」という一文しかありません。しかし、実際にインドネシアから強制連行された元労務者の方から聞く凄まじい拷問の話は、東南アジア諸国に対する日本の戦争責任を考える上でも非常に貴重な証言です。歴史の延長線上に生きる日本人として、「習わなかったので知りませんでした」では済まされません。

 また、共感する力が大切だとも言われますが、最近気付いたのは、どんなにがんばっても共感できないことがあるし、共感できなくても理解することができるということです。さまざまな歴史的背景や考えを持った人と接する時に、自己の共感力だけに頼ってはいけないということです。時に共感できないことがあるということを認めた上で、それでも理解しようとする姿勢を根気強く持ち続けることが必要なのだと思います。

 さらに、日ごろ学生たちと接する中で痛感するのは、日常的な「対話」の欠如です。友だちはたくさんいて、仲良く「会話」はたくさんしているのに、「対話」にはなっていません。いかに〝意識的に〟「対話」が生まれる環境を創出するかが、学生にとっても、わたしたち教育に携わる者にとっても大切な課題だと思っています。

 タイの公館で開発援助コンサルタントをしていたころの経験を振り返ると、結局、現地の人々にとって裨益する援助を実施するためには、個人として人と人との交流から生まれる信頼関係が必要です。わたしという一人の人間と、現地の村人一人ひとりによる民際交流を通して相互理解を進め、ローカルなレベルでミクロサイズの平和構築をあちこちでやっていくことこそが、堅実な道なのではないかと思います。

 持続可能な開発のための教育(ESD)の分野では「Think Globally, Act Locally」ということがよく言われますが、同じことが平和の問題にも当てはまります。自らの歴史に学びながら一人ひとり小さい自分が今ここでできることは何かを考えて行動することが、戦争を回避することにもつながっていくと思います。

 そしてこれらのことを、キリストの十字架に立ち返りながらキリストと共に担っていくことができるのは、やはりキリスト者しかいません。

(はまぐち・あい=明治学院大学宗教部勤務)

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