【空想神学読本】 「フルーツバスケット」にみる現代人の〈受容〉 Ministry 2016年夏・第30号

 果計売上部数1800万部を超え、「もっとも売れている少女マンガ」としてギネスブックにも認定されている「フルーツバスケット」、略称「フルバ」。そこに描かれた〈疎外〉と〈受容〉の神学的考察を試みる。

 パウル・ティリッヒは神学の方法として「相関の方法」を主張している。神学は各時代の精神的な〈問い〉に対して、キリスト教的なメッセージを語りなおす形で〈答え〉を与えることを試みる。では、現代日本における〈問い〉とは何だろうか。サブカルチャーはこの〈問い〉を探り出す重要な源泉の一つと言える。

 「フルーツバスケット」がえぐり出す現代人の問題をあえて定式化するなら、それは〈疎外〉だと言える。物語は草摩一族とそこに生まれる「物の怪憑き」をめぐって展開する。物の怪憑きとして生まれた子どもは、異性に抱き着かれるとそれぞれ鼠や牛など十二支の動物に変身してしまう。彼らはその異形ゆえに親から拒絶され、友人や社会からは距離をとって生きていかなければならない。自分が本来あるべき姿から〈疎外〉されて生きる草摩一族の孤独や痛みが描き出されていく。

 このような〈問い〉に対してどのようなキリスト教的〈答え〉が与えられるだろうか。ティリッヒの著作『生きる勇気』から概念を借りれば、それは〈受容〉である。受容とは、誰かを受け容れること。欠け・不完全性にもかかわらず、その存在を肯定することである。

 では、受け容れてくれるのは一体誰だろうか。『生きる勇気』では「存在それ自体」という抽象的な名が与えられているが、「フルーツバスケット」においてそれは一つの具体的人格をとる。それが主人公の本田透である。両親を失った彼女は、それでも明るくめげずに高校生活を続けるなかで草摩一族に出会うことになる。素直さ、ひたむきさ、優しさ、天然として表現されるその性格は、少女漫画ヒロインにおける一つの範型を形成するものだと言えよう。

 主イエスも、その地上の生涯において本質的に〈受け容れる者〉であった。三位一体の第二位格であるだけでなく、彼は実際にそこにいて、取税人や遊女たちのかけがえのない一つひとつの人格を肯定し、受容する。本田透というキャラクターは、完全な〈受容〉という理念を不完全にでも体現する、ひとつの現代的な可能性を見せてくれるものではないだろうか。

 ただし、受容は常に犠牲を伴う。イエスは罪の贖いのために十字架にかかった。「フルーツバスケット」では、「バカな旅人の物語」が主人公である透の寓意として語られる。お人好しで「バカな旅人」は、行く先々で人から物をだまし取られてしまう。「薬代が……」「病気の妹が……」。素直な旅人は悪意に気付かず、自分の持っているものを渡してしまう。「これで助かります」という人々のウソにも「お幸せに、お幸せに」と涙をこぼし、何もかもを失って死んでいく。

 犠牲を美化する言葉には十分気を付けなければならない。現代にもお人好しで「バカな旅人」は大勢いる。同調圧力のもとで時間や金、果ては命までをもだまし取ろうとするブラック企業や愛国心の悪意も数え上げればきりがない。「蛇の賢さ」が私たちには求められている。しかし、「鳩の素直さ」そのものが罪なのだろうか。その素直さにいつの時代の人も心を打たれるのは、支配者に都合のよいイデオロギー(ユルゲン・ハーバーマス)によって私たちの良心が歪曲されているだけなのだろうか。むしろ、そこに隣人愛という真理の普遍性が姿を現わしているのではないだろうか。

 実存の新たな可能性を開いてくれる現代の神話として、「フルーツバスケット」はまだその価値を失ってはいない。

(岡田勇督)

【作品概要】 フルーツバスケット

 テントで暮らす女子高生・透。家事の腕を買われ同級生・草摩由希の家で暮らすことに……。ところが、転んだ拍子に抱きついた草摩家の人々が動物に変身!? 不思議な一族との新生活の行方は──。

 『花とゆめ』(白泉社)で、1998 年16 号から2006 年24 号まで連載。2001 年、第25 回講談社漫画賞・少女部門受賞。同年にテレビ東京系でアニメ化。09 年には劇団スタジオライフによって舞台化された。

■ 作者 高屋奈月
■ 出版社 白泉社
■ 掲載誌 花とゆめ
■ レーベル 花とゆめコミックス
■ 巻数 全23 巻、愛蔵版11 巻(2016 年6 月現在)

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