【教会の彼方】 社会の常識を教会にも 主教・司祭に求められる資質 竹内謙太郎 2016年9月17日

 「教会の常識は社会の非常識」と卑下して語られることがある。世俗と異なる価値観を持つことが教会の信仰共同体たる所以でもあるが、組織を取り巻く暗黙のルールが社会通念からかけ離れていると批判されることも多い。この間、「強制わいせつ」「パワハラ」「カルト化」など、教会内での不祥事が一般メディアでも多々報じられてきた。さらには牧師の「擁護派」と「糾弾派」による対立も耳にする。未然に防ぐ策はないのか。教会の「彼方」を見据えるため、現場を退いた司祭の問題提起に耳を傾ける。

司牧者としての責任放棄するな

 聖公会における主教はイエス・キリストの直系の後継者と理解されます。イエス自身が食事の主催者であったように、主教の語源であるラテン語の「エピスコパス」には、食卓全体を見渡すという意味が含まれています。その役割を主教から委任されたのが司祭。ですから、司祭と主教は一体であるというのが原則であり、主教の意図は司祭によって行われ、司祭のあらゆる行いは主教の責任下にあります。

 つまり聖公会における司祭職(教会の牧師としての働き)は、家長として家族を養うという責務であり、信徒に対して霊的にも社会的にも責任を取る立場にあるわけです。それは自らの家族に対しても同様で、親としての責任と同時に、教会の信徒でもある家族への牧会者としての責任も発生します。司祭按手で用いられる式文には、「あなたと家族の生活をキリストの道にかなわせるように努めますか」との試問も明記されています。

 成人した子どもの過ちについて親の責任をどこまで問えるかをめぐり、しばしば議論になりますが、少なくとも牧師の場合、息子や娘の所業は関係ないというのであれば、司牧する教会の信徒は無関係と切り捨てることと同じで、牧師職を放棄するに等しいと思います。

 もちろん、司祭や主教といえども欠陥がありますし、自身が過ちを犯すこともあるでしょう。しかし、問題が起こった時にどう対処するかという点は問われなければならないと思います。自らの過ちを認め、許しを請い、悔い改めて職務を続けるということはあり得ると思いますが、「牧師もひとりの人間」ということを責任逃れの口実にしてはなりません。

           

 聖公会では教区総会の選挙で、司祭と信徒の3分の2以上の得票により主教が選ばれます。また、全教区による全国総会とは別途、全主教11人による主教会があり、最終的な決裁権を有しています。あらゆる任免権を含め、主教が有する権限は絶大です。主教自身がそれをどれだけ自覚し、いかに自律的であれるかが特段に要求されているわけです。

 戦後50年間、主教会の動向を見てきましたが、構成員が変わっても内部的な結束は変わりません。ただ、昨今は主教としての資質に欠けると疑わざるを得ないケースが増えているという印象を抱いています。

 現在の主教は皆「いい牧師」ではありますが、行政的な手腕の有無についてはいささか不安です。たとえ嫌われても行政官としてやるべきことはやるというリーダーシップを発揮し、大勢に流されないような度胸がなければなりません。神学的に説得できるような能力も要求されます。

 もちろんすべてにおいて万能な主教は滅多にいませんが、「何もせず誰にでも『イエス』というタイプ」か、「やりたいことだけはやるが、それ以外は誰に対しても『ノー』というタイプ」のいずれかが多いようです。

信徒にも執事としての役割を

 司祭が少ないことによる弊害も見逃せません。志願者が少なければ、その資質を見極めて選出することができません。

 1970年代のアメリカで神学校への入学者が激減した際、教会が打ち出したのは優秀で人望のある信徒にアプローチし、まずはディーコン(執事)から、さらに司祭になりやすくするという制度上の整備でした。神学校を出て試験を受けなければ司祭になれないという制約を見直し、志願者は主教との面談と最低限度の条件をクリアすれば執事になれるようにしました。その結果、各教会の優れた信徒が自身の職業を持ちながら、日曜日は教会で奉仕するというあり方が浸透し、それが教会全体の雰囲気を一変させました。すると、年配の司祭もおちおちしていられず目の色が変わってくる。

 現在、日本聖公会は方針として掲げていませんが、今後は信徒をいかに励ますかということが重要な課題になってくると思います。特に聖公会の場合、説教中心ではなく、牧会訪問を懸命にやる司祭がいてもいい。執事には祈祷書でお祈りする資格が与えられていますから、日常的な牧会活動が分担できます。カトリック教会の「信徒使徒職」のような位置づけです。

 ある程度の年配信徒であれば、豊富な社会経験や知識を共有する可能性は大いにありますし、個人的には大歓迎です。そういう方向しか残されていないのではないでしょうか。

 これまで教会と社会は別だということを強調してきた向きもありますが、社会の常識は教会の常識でもなければならないし、教会の常識を社会の常識にしていくことこそ、わたしたちの働きの一端だと思っています。

(たけうち・けんたろう=1931年生まれ。慶應義塾大学、聖公会神学院卒業。日本聖公会司祭。元日本キリスト教協議会(NCC)議長)

『教会に聞く』改訂新版発行 聖公会の竹内謙太郎司祭が講演 2018年2月11日

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