【メッセージ】手の平を空っぽにして 與賀田光嗣 2016年12月25日

 主よ、我が岩よ、我が贖い主よ、我が口の言葉、我が心の思いを御心に叶わしめ給え アーメン

 クリスマスおめでとうございます。クリスマスの時期になりますと、年末ということもあって街も賑わいます。こんなにも賑わうのは、堂々とプレゼントを贈ったりもらったりできる季節だから、と言えるでしょう。ですから、プレゼントをもらえない人や、贈るあてのない人にとっては、あまり嬉しくない季節なのかもしれません。

 何故かというのは、やはりプレゼントというものは、嬉しいものだからです。自分がもらう側になっても、贈る側になっても。選んでくれた相手の顔を思い浮かべるのも幸せなことですし、受け取ってくれる相手が笑顔になるのを思い浮かべるのも幸せなことです。

 皆さんが今まででもらったプレゼントで一番いいものとは何だったでしょうか。小さな子だったら、何かの時にもらったおもちゃかもしれません。大きくなった時に、それをくれた人の顔を想像することでしょう。結婚されている方なら、指輪かもしれません。やっぱり、相手の思いを想像させてくれますからね。愛する人が近くにいる人ならば、それが恋人であれ、子どもであれ、親であれ、それはとても素敵なプレゼントです。なぜならこのプレゼントは、その人があなたにくれたものではなく、その命が神さまによって、あなただけにではなく、この世界にプレゼントされたのですから。

 では、皆さんが今まで贈ったプレゼントで一番いいものとは何だったでしょうか。おもちゃ? 指輪? 車? 家? これは、答えられませんね。一番素晴らしいプレゼントが何かだなんて誰にも分かりませんし、「自分という存在だ」と言いましても、命は授かり物で、自分のものでもなければ、親のものでもないのですから。

 すると、わたしたちは実は何も持っていない、本当に贈り物にできるものを何も持っていない、ということに気づくのです。わたしたちの手は、生まれた時は空っぽで何も持っていなくて、年を重ねるごとにいろんなものを持っているかのように錯覚して、しかし実は空っぽなんだ、ということに気づくのです。クリスマスは、わたしたちの手が実は何も持ってなくて空っぽなんだ、ということを教えられる日なのです。

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 クリスマスの夜、若い夫婦であるマリアとヨセフは、何もその手に持っていませんでした。寒い冬の夜、マリアが身重だというのに、宿屋はどこも一杯で、きっと立派な宿屋は空いていたでしょうが、若く貧しい見ず知らずの夫婦を泊めてくれるところなんてどこにもありません。寒くてかじかんだ自分の手の平を見たヨセフは、どんな思いに駆られたことでしょうか。

 しばらくして、彼らを泊めてくれるところが見つかります。一般的には馬小屋だと言われていますが、当時の小さな貧しい家というのは、夜になると自分たちの住んでいる一間しかない家に家畜を入れ、暖を取るという生活をしていました。貧しい人はまさに馬小屋に住んでいたようなものだったのです。何も持っていない人が、若く貧しいマリアとヨセフの夫婦を招き入れたのです。若く貧しいお腹の大きい夫婦を見た時、その人はどれほどのものを感じたでしょうか。その人は、貧しいながらもできる限りのもてなしをしたことでしょう。マリアとヨセフを招き入れる、その貧しい空っぽの手の平は、どんな風に見えたことでしょう。

 急いで赤ちゃんイエス様のために、ヨセフはその手で飼い葉桶を整えます。飼い葉桶ですから、当然ヨセフの手は汚れていって、かわりに飼い葉桶がきれいになっていきます。そのヨセフの空っぽの少し汚れた手を見たその家の人と、そしてマリアは、何を思ったことでしょうか。そんな空っぽの手で、空っぽの手だからこそ、マリアは、ヨセフは、何も持っていない赤ちゃんイエスを抱っこすることができたのです。

 3人の学者たちも、自分たちの持っている一番いいものを手放して、手を空っぽにして、赤ちゃんイエスを抱きしめます。何も贈り物がない羊飼いたちも、その空っぽの手で、赤ちゃんイエスを抱っこするのです。すると、赤ちゃんイエスのぬくもりが、空っぽの手に伝わります。そして自分の手のぬくもりが、幼子へと、また、伝わることを教えられるのです。

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 数年前の秋のこと、ある女性が、生後10日の赤ちゃんを残されてこの世を去りました。それからわたしは気がかりで、その赤ちゃんがいる養護施設を訪れようになりました。その年のクリスマスの季節に、生後2カ月くらいの赤ちゃんのところに、ちょっとしたプレゼントを持って行ったのです。

 ちょうど施設でクリスマス会をしていましたので、わたしも参加させてもらいました。そのちっちゃなちっちゃな赤ちゃんは、可愛いサンタさんの格好をしていました。わたしが抱っこをしばらくしていますと、腕の中で眠り始めてくれました。

 そうしますと、こう感じるんです。ああ、この子がサンタさんなんだ、と。わたしやそこを訪れている周りの大人たちではなく、この子がサンタさんなんだ、と実感するのです。この子が生きているということ自体が、この子の存在自体が、命自体が、なにものにも代え難いプレゼントなんだ、ということです。

 その後、この赤ちゃんはある方に引き取られ、イースターに洗礼を受けられました。今年もきっとどこかの教会で、共にクリスマスを迎えていることでしょう。

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 もらうだけでなくお返しをしていく、これは大切なことです。ですが、忘れてはいけないのは、どんな時ももらい続けているんだ、慰められているんだ、与えられているんだ、ということです。そのためには手を空っぽにしなければ、自分が持ってきたプレゼントを手放さなければ、赤ちゃんを抱っこすることはできません。

 空っぽの手、何も持っていない手、だから分かる相手と自分のぬくもり、これがクリスマスにすべての人に与えられた素敵なプレゼントです。空っぽの手でこの世界に生まれてくる、そのこと自体がプレゼントなのです。わたしたちがすでに受け取っているプレゼントを、もう一度思い起こす日なのです。主イエスは常にその空っぽの手を、わたしたちに広げられているのです。

 どうかこの1年、あなたの手を空っぽにする時間を作って、その手の平を眺め、黙想の時をお持ちになられてください。それが、クリスマスのプレゼントです。主イエスの御降誕をお祝い致しましょう。クリスマスおめでとうございます。

 父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 よかた・こうし 1980年北海道生まれ。2004年関西学院大学神学部、08年ウイリアムス神学館卒業。10年3月司祭按手。神戸聖ミカエル教会勤務を経て高知聖パウロ教会司祭。現在、立教英国学院チャプレン。妻と1男1女の4人家族。

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