映画『沈黙-―サイレンス--』1月21日公開迫る 2016年12月25日

スコセッシは何を撮ったのか 遠藤周作没後20年

 遠藤周作没後20年という記念すべき年に、『沈黙』が再び脚光を浴びることになった。17世紀江戸初期、激しいキリシタン弾圧の中で棄教したとされる師・フェレイラの真実を確かめるために日本にたどり着いた宣教師ロドリゴ。その目に映った想像を絶する日本を舞台に、人間にとって本当に大切なものとは何かを描く。

 いよいよ年明けに迫った公開を前に、「遠藤周作を読む会」を主宰し、長く遠藤周作研究に携わってきた金承哲氏(=写真)に寄稿してもらった。

 今年で発刊50周年を迎えた遠藤周作(1923~96年)の『沈黙』。まもなく、もう一つの「沈黙」が現れることになる。アメリカの巨匠マーティン・スコセッシの映画『沈黙―Silence』だ。

 スコセッシといえば、あのニコス・カザンザキスの問題作『キリストの最後の誘惑』を映画化した監督としても有名である。シチリア系イタリア移民の子孫として、司祭になるためにイエズス会の小神学校に入ったこともあるスコセッシ。しかし、神学校は中退してしまった。果たして何がこの男を動かし、『沈黙』にカメラ・レンズを向けさせるようにしたのだろうか。

 『沈黙』は、キリスト教が厳しく弾圧されていた17世紀の日本を背景とする。主人公は司祭ロドリゴ。遠藤は、イタリア・シチリア島出身のイエズス会士ジュゼッペ・キアラ(1602~85年)をモデルとして、ロドリゴの物語を描いた。とすれば、遠藤と、あるいはロドリゴとスコセッシの間の距離が一気に縮まってしまうような気もする。

 ロドリゴは、自分の神学校時代の師匠のフェレイラ師が拷問を受け棄教したと聞き、その真相を求めて日本に潜入する。そして、フェレイラの跡を追っていく。が、追跡するロドリゴにも危険が迫ってくる。

(スコセッシ監督(左)と司祭ロドリゴを演じる主演のアンドリュー・ガーフィールド=写真上)

 やがてロドリゴも捕らわれの身となり、フェレイラと再会する。フェレイラの跡を追ってきたロドリゴだが、彼が目にしたのは、フェレイラの体にある「褐色になった火傷のひきつったような痕跡」だった。それは、フェレイラがキリストの下僕であるがゆえに「穴吊り」の拷問を受けたときできたものだった。その苦痛と屈辱の痕跡は、「イエスの焼き印」(ガラテヤの信徒への手紙6・17)とは関係ないものなのか。相次ぐ疑問が行き詰まったところで、ロドリゴは踏絵の前に立たされる。そして、思いもよらなかったキリストの声を聞く。
 「踏むがいい」

 長崎で見た踏絵に残されていた人びとの足の痕跡が、遠藤に問いかけたものがあった。「あの黒い足指の痕を残した人びと」は、踏絵を踏んだ時どのような心境だったのだろうか。「踏むがいい」は、その問いに対するキリストの答えであっただろう。そして、その汚れた足の痕跡は、十字架のキリストの聖痕(スティグマータ)と重なる。その傷跡は、キリストがご自分の身をもって人への愛を示した徴表だからである。

 

 遠藤は、踏絵に残されたキリシタンの足跡を追う自分の姿を、フェレイラの痕跡を追うロドリゴの姿に託した。彼の魂の中で行われた追跡は、それらの痕跡を通して働いている神の愛に導かれた。

 この辺で、スコセッシの話を聞きたい。彼は、『沈黙』のドイツ語訳に寄稿した「序文」の中で、遠藤のこの問題作について次にように語る。

 「神の愛は、わたしたちが考えることよりはるかに神秘的であるとのこと。その方は、わたしたちが意識することよりもっと多くのものをわたしたちに委ねておられるとのこと。そして、その方は、黙っておられるときでさえすべてのところでわたしたちに語っておられるとのこと。『沈黙』は、これらのことを言い尽くせない苦難を通じて自分の身に引き受けたある男の物語である。」

 踏絵を踏んだロドリゴは言う。「その人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、わたしの今日までの人生があの人について語っていた」

 『沈黙』の末尾にある「切支丹屋敷役人日記」には、踏絵を踏んだ後にも、自分に残っている神の痕跡を探し続けた男の壮絶な人生が記されている。

 そして、スコセッシが次のように打ち明けるところで、彼の同郷の先輩のロドリゴの面影が浮かんでくる。「わたしは、洗礼を受けた者ではあるが、もう教会には行っていない。とはいえ、わたしは依然としてカトリック信者だ。そこから離れることはできない」(『Afterimage: The Indelible Catholic Imagination of Six American Filmmakers』より)

 遠藤は、西宮の夙川教会で洗礼を受けた。しかし彼は、その受洗はあくまでも母親の意思によるものであって、自分の決断によるものではなかったと悩み続けた。小説家としての遠藤の生涯は、その悩みとの格闘であったともいえるが、そこで彼が見つけたのは、人間の意志を超えて働く神の恵みであった。

Photo Credit Kerriy Brown

 「洗礼という秘蹟は、人間の意志を超えて神の恩寵を与える。(中略)彼らの受洗に万が一、そのような不純な動機があったとしても、主は決してその者たちをその日から問題にされない筈はない。彼らがその時、主を役立てたとしても、主は彼らを決して見放されはしない」(『侍』より)

 それゆえ、キリストの痕跡を追うのは、傍観者としてはできない。なぜなら、その痕跡は、ほかならぬ自分の身に刻み込まれているものだからである。

 遠藤は、現場に残された足跡にルーペを近づけながらそれを残した者を追いかける探偵のように、自分の身に痕跡を刻み込んだキリストを探し続けた。スコセッシは、その痕跡にカメラ・レンズを向けてフィルムに焼き付けることによって、「見えないものにわたしたちを向けさせる」映画を作ったのではないだろうか。

*「遠藤周作を読む会」は毎月第一土曜日、午後2時~4時(変更あり)。南山大学・南山宗教文化研究所にて。問い合わせは金(#052・832・3111、Eメール=echkim@gmail.com)まで。

 

 

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