激動の時代〝限界〟超えて 創立70周年記念講演 戦後キリスト教の歩みと出版――新たな宣教を切り拓く 芦名定道(京都大学大学院文学研究科教授) 2016年12月25日

 「忽然として一人の人物が姿を現わす」「闇市の雑踏の中に現れたのはイエス・キリストである」――主筆の武藤富男が「創刊の辞」にそう書き記して以来、実に70年の長きにわたり出版事業を続けてきた小社。その節目を記念するため、日基教団富士見町教会(東京都千代田区)で11月19日に開かれた公開講演会では、かつて「論壇」の執筆も手掛けた京都大学大学院文学研究科教授の芦名定道氏が、「戦後キリスト教の歩みと出版――新たな宣教を切り拓くために」と題し、70年の歴史を振り返りつつ展望を語った。その抄録を掲載する。

初めから「メディア」と共に

 戦後71年――そして、キリスト新聞社創立70周年。キリスト教の歴史から見れば決して長い時間ではないのですが、わたしたちにとってはかなり長い時の流れとも思われる、この過去を振り返るところから、話を始めたいと思います。最初の10年間については武藤富男先生の『社説三十年』が復刻されているので、詳細はそれをご覧ください。

 戦後の時代は、敗戦の中からわたしたちの先輩が立ち上がり、日本を立て直すという歩みから始まったのですが、平和と軍拡という対照的なものの間で時代が揺れてきたという印象を受けます。初めのうちは戦争に負けて平和憲法が制定されたばかりですから、当然、平和というものが中心となります。ところが朝鮮戦争のあたりになってくると、自衛隊の問題と共にぐっと右の方に寄っていきます。

 その中でキリスト教会は、たとえば1960年の安保闘争、それからその後の教会紛争につながる学園紛争によって相当揺さぶられます。その後遺症がずいぶん長く残りました。これは不幸なことであったとわたしは思います。

 そしていわゆる高度経済成長期に入る。その中で、わたしたちは精神的なものをどこかに置き忘れてしまい。社会は急速に世俗化していきます。いつの間にかキリスト教ブームは去っていて、教会はせっかくのチャンスを活かせたのかという反省も起こってくる。教会内を見ると、70年代、80年代くらいから、いわゆる高齢化と呼ばれる問題が進行し、そこから今に至る教勢停滞の状況が続くことになりました。

 日本社会はこの揺れ動き中で、特に90年代以降、急速に右傾化していきます。わたしたちは今、憲法そのものが危うくなっているという事態に直面していますが、以上のような激動の中に、この70年間はあったのです。

 その中で、キリスト教出版はどのような役割を果たしてきたのでしょうか。

 たとえばキリスト新聞社のことで言いますと、新聞の標語に「平和憲法を護れ」とあります。これは創刊号から掲げられていたわけではなかったと聞いていますが、ある時期からはずっと掲げられ、今も堅持されているわけです。このことは非常に重要な意味を持っています。平和憲法を一貫して掲げるというのは、なかなかたいへんなことです。右傾化する中でそれを掲げれば、いろいろなところから圧力を受ける。あるいはキリスト新聞から離れる人も出てくるかもしれません。そういう中で平和を語り続けるというのは労苦の要ることで、貴重な貢献であったと思います。

 70年よりもさらに時代を遡ってみたいと思います。「出版」というとやや狭いので、「メディア」としますが、キリスト教とメディアとの関係はいつから始まったのか。これは実をいうと「キリスト教の初めからそうだった」ということを、まず確認しておくことが必要です。わたしが指摘するまでもなく、キリスト教の始まりには、次のような出来事がありました。

 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』」(マタイによる福音書28・16~20)

 この聖書の箇所は、イエスが地上を去るにあたり、弟子たちに残した言葉と言うべき内容となっています。これは、キリスト教の基本的な性格を規定しているのではないでしょうか。それをひと言で言う時リスト教は「宣教タイプの宗教」であるということです。宣教は、キリスト教がキリスト教であるための本質的な事柄なのです。そもそも宣教しないキリスト教はキリスト教とは名乗れない。おそらくそのような意味で、この言葉は福音書に収録され残されてきた、そしてわたしたちはこれを繰り返し読んできたのです。

 ここで問題になるのは、それでは宣教は具体的にどういう形をとってきたのかということです。その中心となったのは聖書です。これもおそらく異論はないと思います。聖書のメッセージこそが宣教の中心であった。そしてそれをどのような仕方で語るのか、その語り方は多様であったわけです。その語り方の中に、まさにメディアの問題があるのです。

 たとえば聖書や聖書のメッセージを語る時に、その媒体が問題になります。当初はもちろん印刷などありませんから、当然写本・手書きの聖書です。キリスト教の歴史の大部分は、このような仕方で経過しました。

 ところが500年前、キリスト教界は印刷術という画期的なメディアを手に入れることになります。つまり、聖書や他のさまざまなものが印刷されるようになる。19世紀ごろからは本格的に印刷を使った伝道が始まります。つまりトラクトを刷る、パンフレットを作る、ポスターを貼るなど、そういう方法を駆使しながら、キリスト教界は成長してきました。実はそれこそが今の近代的な出版業界の誕生の起点となるのです。

 キリスト教のさまざまなメディアの変遷の中にあって、おそらく出版は近代キリスト教宣教の中心にあったと言えます。それがさらに新しいメディアを巻き込みながら更新されていく。100年くらい前には、紙ではないメディア、電波が登場する。ラジオ、それからテレビ、そして現代ではインターネット。このように、わたしたちはより新しいものへとメディアを更新し、付け加えながら、宣教を続けてきたのであり、これがキリスト教の歴史であると思うわけです。

 こういう言い方が適切かどうか分かりませんが、キリスト教の歴史はメディアに拠る歴史であるというのも、キリスト教の大切な見方の一つだと思います。ですからその中に出版はしかるべき位置を占めてきたし、今も占めているのです。

変わることによってのみ変わらない
市場化・国際化による危機

 さて、ここで結論的なまとめを一つ提示します。「神の言葉は変わらない、しかし、その形は変わる。形が変わることによって、神の言葉の不変性は可能になる。変わることによってのみ、変わらない」

 形、つまりメディアは変わる。そのことによって、神の言葉は変わらないということが示されるのです。つまりメディアが変わっていくということは悪いことではない。そこには積極的な意味があるということを、指摘したいと思います。メディアが変わることには必然性がある。それによって、むしろ神の言葉は現に変わらないものとなる。そのことを念頭に置きながら、次に現代の問題に入っていきたいと思います。

 キリスト教界は今、危機の中にあります。先ほど「教勢が停滞している」という話をしましたが、「信者数が人口の1パーセント未満」という状態が延々と続き、しかもこの状況でさえ今後持続するかどうかが怪しくなってきているということです。教会の高齢化が進み、10年後の教会はどんな姿になっているだろうかと、わたしも教会の一員でありますので、その不安を共有しています。地方からしだいに教会が消滅しつつある。この問題は決して見過ごしていいはずがありません。

 ただ、これはキリスト教界だけの動向ではありません。『寺院消滅──失われる「地方」と「宗教」』(日経BP社、2015年)によれば、日本の伝統仏教を担う寺院が急速に消滅していく現実が指摘されています。日本の教会だけがこうした日本宗教の危機的状況を免れ得るとは言えないということです。教会も危機の内にあることは間違いありません。

 わたしが所属している「大学」の世界もそうです。明治以降の国づくり、富国強兵政策の中で、日本の大学は一定の役割を担ってきました。ところが近年、さまざまなファクターが加わることによって、大学は大きく変わりつつあります。それを象徴する言葉が「教育の市場化」、そして「国際化」、あるいは「グローバル化」です。1980年くらいから大学は大きな改革を繰り返してきました。全国の大学で進められた、教養部の廃止、そして大学院の重点化です。大学院生は増えたのに、就職先がないというのは、この「改革」の結果です。

 大学の改革が進む中で起こってきたのが、学問共同体としての大学機能の衰退です。大学は、研究と共に、人間を育てるという教育の役割を本来果たすべきであるにもかかわらず、それが難しくなってきているのです。人間を育てるという使命を担っているからこそ、国立大学にも税金が使われて当然なわけですが、ところが、その力が急速に低下してしまっているのです。

 これは、教育に等価交換原則を持ち込んでしまうと、どこかに歪みが生じるという問題ですが、教会に等価交換原則を持ち込んだらどうなるかを想像すれば、少しイメージしやすくなるかもしれません。もしも牧師が等価交換で牧会を行ったら、給料がこれくらいだったら、これくらいの仕事で十分だと……。そんなことが教育の場で起こる時、これは教育の力の減退と言わざるをえません。

 確かに市場原理が有効性を発揮する場合もあり、それを否定する必要はありません。しかし、市場原理ではないような仕方で動いている、そういう営みも人間には大切なのです。

 これを日本社会の仕組みの中で考えるならば、当然のことながら教会も、出版も、大学と共に同じ大きな流れの中に立っていると言うべきでしょう。このような危機の中で、どこからどういうふうに未来を展望するのか。それをわたしたちは共に考える必要があるのです。

ネットワークの結節点として

 最後に、「新しい宣教」、未来について触れたいと思います。グローバル化、IT化は出版や学術に対して大きな変化をもたらしています。それは、文化がマスの文化から非常に細分化された文化に移りつつあるということです。

 それを象徴しているのはテレビだと思うのですが、かつてテレビにおいて高い視聴率を持っていた番組がありました。そして、テーブル一つを囲んで家族みんなが同じ番組を見ていたという原風景がありました。ところが80年代頃から状況が急速に変わり始めます。視聴率がとれなくなってくる。今の大学生にはそもそもテレビなど見ないで、インターネットなどの別の仕方で情報を得ている者が増えています。はっきり言って今の学生は新聞を読みません(これは言い過ぎですが)。それに伴って知的世界も急速に変容しつつあります。

 そういう中で、何か一つの、誰もが共有している体験とか、知識とか、番組とか、そういう作り方はできなくなってきています。そうなると、たとえば出版に求められるのは、個別のニーズに焦点を合わせた仕方で「付加価値をつける」ということになります。今までは広く不特定多数の読者に、という仕方でさまざまなものが作られていましたが、もっと狭い範囲の人に特化して企画を行うことが必要となります。

 こうしたメディアの変化の中ではっきりしているのは、新しい発想が求められているということであり、これは疑いなく、重要なポイントの一つだと思います。

 先に「メディアはキリスト教の本質に関わっている」ということを確認しましたが、メディアの一つとしての出版は、近代社会で重要な位置を占めてきました。出版は近代的知に大きく関与し、その点で、近代の状況に非常によくフィットしてきたのです。たとえば大学で言いますと、大学の授業でもしばしば教科書を使用します。そして大学の研究者は現在、たいてい学会に所属しており、学会は研究者集団として、研究雑誌を発行します。これらに形を与えるのが出版社です。ですから研究と学会と出版というのは、いわば近代的知の三位一体的な基本構造となしているのです。

 ところが今、この近代的な知識の形が変わりつつあるわけです。大学において研究の性格が変わりつつあり、これは教科書に当然反映します。学会の機能も変わってきています。これまで学会は紙媒体の雑誌を出してきましたし、今後もしばらくは出し続けるでしょう。しかしこれも10年後、20年後、変化せざるを得ないのではないでしょうか。人文系はどんどん予算が削られていく中で、費用のかかる紙媒体の雑誌は出さないという時代はそう遠くはないという気がします。知識の形が変わっていく中で当然出版の形も変わってくる。どう変わるのか、そこが問題になると思います。

 この問題を考える上で、興味深い文献があるので紹介します。環境問題の分野でよく知られた、『限界を超えて──生きるための選択』(ダイヤモンド社、1992年)という本です。この本のタイトルにおいては、環境破壊は限界を超えている、このままいったら破滅するというニュアンスの「限界を超えつつある」と、それではどうやって「限界を超えて」、持続可能な世界を作るのかというニュアンスとの二つが重なり合っています。こうした点について、さまざまな科学的分析がなされた後で、最後に「限界を超えて」持続するために必要なものとして示されるのが、次のポイントです。

 「ビジョンを描くこと。ネットワークづくり。真実を語ること。そして愛すること」

 ここで注目したいのは、「限界を超えて」進むために挙げられた、「ネットワークを作る」というポイントです。すでに述べたように、近代には近代の知的ネットワークが存在しています。研究者がいて、大学、学会があって、それらがネットワークを作り、それに基づいて知識が共有され、教育がなされています。ところが現在このネットワークが少し揺らぎ始め、形を変えつつあるのです。

 では、その変化との関連で、出版の未来はどう考えることができるでしょうか。指摘したいのは、出版は情報や人間や組織や企画など多様なものを繋ぐ、「ネットワークの結節点」というべき位置にあるということです。そういうポテンシャリティを出版社は持っているはずです。多様なものを結びつけることは本来大学が行うべきことなのかもしれませんし、あるいは教会ができることなのかもしれません。しかし、おそらく知識に形を与える専門家・専門組織として、あるいは多様な知識を総合する場として、出版社はそれを担うのにふさわしい位置を占めているように思います。

 ネットワークの形が変わる時、ネットワークの崩壊が生じることがあります。ネットワークに脆弱性が存在している場合はなおさらです。たとえば、地域社会とのあるべきネットワークから遊離する傾向にあること、これは日本の教会が昔から持っていた問題です。特に都会の教会は、地域とのネットワークに積極的に入ろうとしてこなかったのではないでしょうか。もちろん、そうでない教会もありますから、あまり一般化してはいけませんが、日本の教会では地域との関わりという考え方が比較的弱かったというのが、わたしの印象です。

 ところが今や地域そのものが大きく変わりつつあり、多くの問題に直面しています。その最たるものが「高齢化」です。そういう問題が進行している時、教会はどのようなスタンスをとるかが問われます。地域のあちらこちらが壊れつつある時に、教会には、地域において何が求められているのかに応じて、積極的にメットワークを構築することが求められているのではないでしょうか。宣教する教会はこうした努力を伴う時にこそ、現代社会で意味あるものとなるように思います。

 キーワードは「教会と地域」です。教会が地域から外れたままで存続することはおそらくありません。先ほど紹介した『寺院消滅』という本によれば、なぜ寺院が消滅するかというと、そこにあったコミュニティが消滅するからです。地域でどんどん人がいなくなるにもかかわらず、地域のお寺だけが存続するなどということはあり得ません。これは教会でも同じことであることを想像してみるべきです。

 キリスト新聞社が主催している「『教会と地域福祉』フォーラム21」の活動は、そのような問題意識に関わっています。また、有志の主催による「いのり☆フェスティバル」という催しもあります。そのような仕方で新しい場を作り出すこと、それは出版社ができる、非常に重要な役割だと思います。そういう場において、人と人とをもう一度結びつけいくことが今後ますます大切になっていくでしょう。

 これまでのやり方でもしばらくは存続できるだろうとは思いますが、状況は厳しいものがあります。どうやったら新しいものを生み出していけるのか。それに応えるためには大学、教会、出版それぞれがネットワークを構築するという課題を共有することが必要です。

 これは創立70周年を迎えたキリスト新聞社へのエールですが、キリスト新聞社には、さらに新しいものを作り出していただければと思います。70周年ですから、30年後には100周年となります。その時わたしは生きているか怪しいですが、「この30年間にはこういう新しいネットワークが作られた」という話ができれば、日本の未来、キリスト教の未来は、さらなる次の展望を切り拓いていけると思います。

 最後に一つ締めくくりの話をしたいと思います。それは、危機というのはチャンスでもあるということです。つまり危機というのは、今までの古いあり方に対して、そこから脱却するためのチャンスです。危機は、確かに危機ではありますが、しかし、その危機をどこかでチャンスに変えていかなければ、進むべき道は開けてきません。ぜひそのチャンスを、お互い勝ち取っていきたいと思います。ありがとうございました。

 あしな・さだみち 1956年生まれ。京都大学博士(文学)。日本宗教学会常務理事、日本基督教学会理事など。単著に『宗教学のエッセンス』『ティリッヒと現代宗教論』(北樹出版)、『ティリッヒと弁証神学の挑戦』(創文社)、『自然神学再考――近代世界とキリスト教』(晃洋書房)、『近代日本とキリスト教思想の可能性――二つの地平の交わるところ』(三恵社)、共著に『改訂新版 現代を生きるキリスト教――もうひとつの道から』(教文館)、『脳科学は宗教を解明できるか?』(春秋社)、『21世紀の宗教研究――脳科学・進化生物学と宗教学との接点』(平凡社)など多数。

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