【映画評】 沈黙のスコセッシ、その戦慄。 『沈黙-サイレンス-』 2017年1月21日

 江戸期の隠れキリシタンを扱う遠藤周作の小説『沈黙』を原作とする映画『沈黙-サイレンス-』が、この1月に公開された。巨匠として名高い本作監督マーティン・スコセッシは、かつて神学校への通学時期もある敬虔な側面をもつ。公開に先立ち行われた来日記者会見において、そのスコセッシ監督がこの映画に重ねて自身の信仰の履歴や、撮影に至る内面の格闘をめぐり熱く語った。

 スコセッシが初めに遠藤周作の原作『沈黙』と出会ってから、すでに28年が経つという。それはイエス・キリストを主人公とした問題作『最後の誘惑』を制作公開した1988年のことで、当時この作品は内容の過激さゆえアメリカ内外のキリスト教会から猛烈なバッシングに遭っていた。その渦中で当時のエピスコパル教会(米国聖公会)大司教のポール・ムーア氏から「これは信じることとは何かを問う作品です。あなたにお勧めしたい」と渡されたのが『沈黙』だった。

 「『最後の誘惑』の公開時、さまざまな議論に巻き込まれるなかで、自分の信仰心というものを少し見失ってしまいました。なにか納得いかない、ちょっと違うぞと思っていた。そこで『沈黙』を読み、遠藤周作先生が探求されたように、私ももっと深く掘り下げていって、答えを見つけなければならないのだと思いました。決定的な問いへひたすらに没入していく作業となったという意味において、この作品は他の作品よりも大事なものになっています」

 今となっては意外なことに、スコセッシは原作となる小説『沈黙』を読んでから3年ののちには、本作のハリウッド映画化権を獲得している。にもかかわらず実際の映画化に28年を要した背景には、キリスト教信仰をテーマとする映画制作をめぐる、長きにわたる格闘と学びの履歴があった。

 「それは『沈黙』をどう解釈するべきか、どう撮るべきか、試行錯誤の旅でした。映画が完成したから終わりではなく、この映画とともに生きていく感覚を持っています」とスコセッシは語る。こうした発言を通しスコセッシの作品履歴を見返すと、一見宗教が主題とはならない他の商業娯楽大作群の幾つかにおいても、彼の信仰やキリスト教をめぐる思索の道行きが作品内容の根幹へ影響を及ぼしてきたことが見えてくる。

 19世紀マンハッタンにおけるギャングの抗争を描いた『ギャング・オブ・ニューヨーク』では、主人公は凶刃に倒れた神父の息子だった。瀕死の傷を負ったこの青年を描く映画の終盤は救世主再来の物語として、キリスト復活へ至る新約聖書の一幕になぞらえられている。これは主人公をキリストと見立てる意図が先行したというよりも、映像として復活をどう提示できるかの挑戦と受け取れる。

 また第二次世界大戦後の精神異常犯罪者収容施設を舞台とする『シャッターアイランド』では、主人公の連邦保安官は捜査を進めるうち、私生活やナチスによるユダヤ人虐殺現場を含む様々なフラッシュバックに襲われ、信じるものに対する疑念と罪をめぐる深い自問に囚われてゆく。

 『沈黙-サイレンス-』の前作にあたる2013年作『ウルフ・オブ・ウォールストリート』はマネーゲームの狂騒を主題とするコメディだが、主人公の証券マンが麻薬に酩酊しのたうち回る一場面における身体運動の軌跡は、『最後の誘惑』においてイエスに扮するウィレム・デフォーが見せる終盤の身悶えと軌を一にする。

 音楽には音楽の言葉が、詩には詩の論理があるように、映像には映像の言語がある。それは日常言語には置き換えがたい構造をもつゆえに、スコセッシのこうした履歴はまさに、作品によってしか表現できないことを作品により問い続けた痕跡とも言い換え得る、スコセッシ映画の真髄に触れる道行きそのものだ。スコセッシは会見での質問に答える中で、「『沈黙』をもし若いころに撮っていたら、今年公開される作品とはまったく違うものになっていたでしょう」とも語っている。『沈黙』の映画化へ向けた体勢は整ったと彼が自覚できたのは、2003年ごろだという。それはちょうど『ギャング・オブ・ニューヨーク』を撮り終えた年であり、また私生活においては再婚を経て、初めて子をもうけた時期に相当する。

 「もし若いころに撮っていたら」という想像には興味深いものがある。たとえば『沈黙-サイレンス-』にみられる自然描写の繊細さと豪胆さ、虫の音による幕開けと幕切れや、あたかも自然こそ暴虐の主体と訴えるかのような水磔の場面などは、スコセッシ当人の円熟あってのものだろう。そこには『タクシードライバー』や『レイジング・ブル』など彼の初期作に顕著な、単に主人公を盛りたてるための荒々しい情景描写をはるかに超えた迫力が秘められている。

 迫力といえば、役者の演技についてもそれは言える。『沈黙-サイレンス-』においては、主要な役者のすべてが何かに憑かれたような怪演を披露する。なかでも主人公の神父らを追い詰める井上奉行を演じ、オスカーノミネートすら噂されるイッセー尾形が醸し出す、過去のどんな悪代官像をも突き抜けた音無しの渇いた迫力には震撼させられる。そしてこれは窪塚洋介の体現する凡夫の愚や浅野忠信の眼光の凄絶にも言えることだが、これらすべてが役者各人の才能のみに依存せず、その撮影開始前から映画の全体を睥睨する監督マーティン・スコセッシという《場》の厚みによって引き出されたものであろうことは、恐らく本作を鑑賞する誰もが頷けるところだろう。実際、監督記者会見に先行して催された尾形・浅野・窪塚合同会見でも、この点は三者ともに強調するところだった。

 既存の概念や価値を転倒させることは、芸術表現がもつ本義の枢軸だ。映画は言うまでもなく娯楽であり、と同時に生涯を賭けた創り手による表現でもある。映画監督や製作会社のみならず、配給会社や広告代理店、協賛企業や上映館等々の思惑に乗り全国公開される一本の映画作品が、時に観る者のもつ既成概念を内から突き崩しかねない力を発揮する。『沈黙-サイレンス-』の恐ろしさはそうしたところにある。踏み絵を拒み、水磔に処されてまで隠れキリシタンの村民達が守り抜いたものは、果たして本当の意味での「信仰」だったのか。愚かな弱者として登場する漁師キチジローが欲しがっていたものは、真に「キリスト教」なのか。そこで問われてくるのは誰にとっての何なのか。真とは何か。

 スコセッシは、ローマでの本作上映会においてあるアジア人のイエスズ会神父から、「隠れキリシタンになされた拷問は確かに暴力そのものだが、同じように西洋からやってきた宣教師らも暴力を持ち込んだ」とのコメントを受け取ったという。それは西洋由来の思想信仰を一方的な真理として他の土地へ押し付けてきた史実の営みを意味するが、この傲慢さを見抜かれたからこそ、弾圧もまた民衆よりもまず宣教師へと向かったのだとスコセッシは続ける。さらに会見席上で彼は遠藤周作『イエスの生涯』も喩えにあげ若干冗談めかしつつも、「日本では地震・雷・火事・親父が恐れられるように、権威主義的なアプローチでキリスト教を説くのも少し違うのではないか、キリスト教に内在する女性性をもって説くのが日本で受け入れてもらえるやり方なのでは」と独自の見解を明らかにした。

 『沈黙-サイレンス-』ではこうした点を巡っても、とりわけ後半の展開において極めて両義的に描写されている。主人公の宣教師はいったん自らを放棄することで「真のキリシタン」になっていく。無慈悲な自然と神の沈黙こそ信仰の確立を招来する。そうした地平こそ、『沈黙』の映画化作業を通過したスコセッシがいま立つ境地なのかもしれない。

 28年前のスコセッシ監督作『最後の誘惑』において、生身のイエスの心へささやき続けた天使は終盤、本当は悪魔であったことが暴露され、そこからすべてが覆されていく。それから28年後に顕れた『沈黙-サイレンス-』はいわば、まなざしと佇まいの表現だ。スコセッシ円熟の様式美が役者の影姿を屹立させ、キリストのまなざしが人とスクリーンを射抜いて迫り来る。神は応えない。誰も心を裁けない。しかし。

 その先は、あなたにこそ問われている。(ライター 藤本徹)

『沈黙-サイレンス-』 ”Silence”
1月21日(土)全国ロードショー
公式サイト:http://chinmoku.jp/

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