東日本大震災 尽きぬ不安 残る爪痕 6年目の被災地を行く 2017年3月11日

 東日本大震災から6年の月日が流れた。首都圏では東北に関する報道が減り、未曽有の体験は風化の一途をたどる。しかし被災者の避難生活は今も続いており、原発の廃炉も除染土壌の最終処分も具体的な目途はいまだついていない。被害額の多寡、賠償金の有無、避難者と地元住民の間など、目に見えない溝も無数に生じている。

 「中間貯蔵施設という名の最終処分場」建設と、「帰還という名の復興」のみ急かされるが、優先されるべきものは何なのか。昨秋、東北3県の被災地を訪ねたライターによる現地ルポを掲載する。

〝遠くからの呼び声〟に耳傾け

 岩手、宮城、福島を訪れると、復興の進捗が地域により実にさまざまであることがうかがえた。職員が最後までスピーカーで避難を呼びかけたことで知られたあの南三陸町防災対策庁舎の、鉄骨だけが残る骸骨のような壮絶な立ち姿も、今は土地嵩上げのための巨大な土塁群にうず高くとり囲まれていた。

 各々の事情により、仮設住宅暮らしからいまだ抜け出せずにいる人々とも話した。東松島では風光明媚な景観が賞賛された海沿いの松林を、長大な防潮堤がなし崩しにする様も目にした。巷で交わされる復興土木事業の是非をめぐる議論が、実体的に肉付けされるような経験だった。

 大津波をめぐっては、今でも誰もが記憶するように「神社の鳥居や寺の山門が津波の到達限界を知らせていた」「過去からの警告を人は軽視しすぎた」というような言葉が震災後にはよく交わされた。

 福島県浪江町では、居住や立ち入りを制限されたため、5年経っても震災当時のまま手つかずの区域に残る小学校や家屋を見学した。伝手を得て建物内に立ち入ると、かつての授業や生活の余韻が諸々の用具や家具の破片となって足元から響いてくる。

 例えば海岸近くに位置する請戸小学校では、一人の男子児童の案内によって少し離れた裏山まで皆で避難したという。この「少し離れた」の距離を全身で体感し、校舎三階の高さに位置する時計=写真下=が津波到達時刻の15時38分で停まったままであることを肉眼で目視することは、あの日交わされた無数の声を数年という時を隔てた遠くから、直に聴きとるような体験だった。

 この、遠くからの呼び声に耳を傾けるということ。ふだん南方の異国に暮らす筆者にとって、東北への訪問は距離的かつ精神的に簡単なものではない。簡単ではないが二度三度と試みる価値を感じるのは、こうして現場の空気に身を浸すことでしか得られない体験の記憶の積み重なりが、結局のところ1個の生を色付けていくという感覚があるからだ。

「他人の痛みや苦しみは担えない」

 東日本大震災以降のこの6年だけを見ても、大規模な災害は後を絶たない。報道ではどうしても阪神・淡路大震災など国内の事例ばかりが参照されがちだが、世界標準で見れば死者・不明者が1万を超える予測のあるものだけでも、2013年フィリピンを襲った瞬間最大風速90㍍超の台風、14年アフリカ西岸でのエボラ熱流行、15年ネパール大地震など枚挙に暇がない。そして16年の熊本地震。人的被害の規模からは軽視されがちだが、震度7の揺れが立て続けに観測されたのは史上初だった。

 熊本地震の際、教区を越えて支援活動に奔走した立野泰博さん(日本福音ルーテル大江教会牧師)は、東日本大震災の際にも半年にわたって宮城県に滞在して救援活動に当たった。立野さんは言う。「震災で大切な人を失ったおばあちゃんに何を語れるだろう。他人の痛みや苦しみを担うことはできない。その時、『小さなキリスト』になることを考え始めた」

 「小さなキリスト」になるとはつまり、「となりびと」として寄り添うこと。それが大事なのだという立野さんの言葉は、災害と教会支援、ひいては一信仰者として何ができるかを考える上で示唆に富む。

 東日本大震災後には、日本の火山帯が活動期に入ったとする説も盛んに聞かれた。さらに近年では、地球規模で巨大地震活動期に入ったとの報告が米国地震学会にて為される反面、急速な経済発展の途上にあるアジア各国では原発建設の動きがますます活発になってもいる。不安要素が尽きることはない。

 立野さんは被災地での活動に際して、「神がもしいるなら、なぜこんなことが起きるのか」という問いを突きつけられることが一番怖かったと打ち明ける。しかし実際には、神の裁きとか因果応報というような言葉で済ませるのは、いつも被災地外から傍観する人々だったという。当事者の多くから聞かれたのは、「海さ悪ぐねぇ」「これは天災だべ」といった声だったそうだ。

 神も自然も、また社会を構成する他者の誰一人として、責任転嫁の対象として存在するのではない。問いかけるべき相手はまずこの自分であり、本当に大事なのは問いの内容ではなく問いを投げかける姿勢だろう。ただ今日この一日は、あの雪の日に犠牲となった多くの人々、あの時亡くなっていなければどこかで親しくなれたかもしれない人々、そしてあの震災により身心に大きな傷を受けながら、それぞれの日常を今この瞬間も力強く生き抜いている人々のために、心からの祈りを捧げたい。
(ライター 藤本徹=タイ在住)

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