【映画評】 『美しい星』に宿る病を軽妙に 三島由紀夫の異色作品が映画化 物質文明に生きる〝宗教者〟の姿 2017年6月3日

 三島由紀夫による異色作『美しい星』が映画化され、5月26日から公開中だ。テレビ業界や国会議員に存在感をもたせた脚本に、平沢進の名曲「金星」の挿入歌採用が相まって、現代への翻案ながらレトロな昭和感も醸される軽妙な一編となった。三島の原作は、キューバ危機の1962年に刊行されており、核の恐怖が全編を占めている。映画はこの点こそ環境破壊の脅威へ置き換えたものの、三島が原作の核心にはらませた謎を謎のまま描くことに成功している。

 原作では後半、主人公一家の父・重一郎と映画には登場しない3人の中年男とが対峙する。読者の多くはここで、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官」編の構図を想起するだろう。「大審問官」編を、最大の文学的衝撃体験に数える人はなお少なくない。『美しい星』での対峙場面がそれを意識したことは、三島自身も認めている。とはいえ「大審問官」の深刻さには欠ける。そのように描かれている。

 この軽さがしかし、意図された二重性表現の一環であることを、終盤における父娘の会話のあと初めて読者に気づかせる、という二重構造を三島はとる。

 「広島への原爆の投下で、一体人類のなかの誰が、快楽や苦悩に充たされ、解放されたか。誰もいない。その代りに、昔もいた哀れな死刑執行人、給料のために血みどろな職務に携わり、苦悩も快楽も責任も権力者に預けっぱなしの、哀れな世帯持ちの死刑執行人が今は無数にふえて、どこのオフィスにもいるようになったのだ」

 「アウシュヴィッツが、罐詰工場や化学薬品工場とどこが違っただろう。悪はほとんど直接に血を見ず、衛生的な包装を施され、ひどく抽象的なものになりはしたが、その代り誰も悪に本質的に関与することはできなくなった」

 国土と人心を荒廃させたあの戦争からわずか17年でこれを言うための、道化の軽さ。ちなみにハンナ・アーレントによる「凡庸な悪」概念の提出は、『美しい星』刊行の翌年になる。

 三島はこの『美しい星』版「大審問官」編のなかで、「人間には三つの宿命的な病気がある」と書く。物への関心(ゾルゲ)、人間への関心、神への関心だ。そして物への仮託を突き進める物質文明の生む、究極の逆説的事物として核兵器を描く。核は、人間の絶望的な夢をすべて備えた「最後の人間」だと。そしてこうも付け加える。「それは気違いじみた真赤な巨大な薔薇の花、人間の栽培した最初の虚無、つまり水素爆弾だったのです」と。(ライター 藤本徹)

©2017「美しい星」製作委員会

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