【宗教リテラシー向上委員会】 現代の苦しみ解決する補助線を 池口龍法 2017年7月21日 

 これまでさまざまな媒体に寄稿させていただいたことはあるが、キリスト新聞社からオファーが届いたときにはさすがに目を疑った。しかし、フィクションとはいえ、漫画『聖☆おにいさん』ではブッダとイエスが共同生活を送ってしまう時代である。わたしが寄稿するぐらい、神さまも仏さまも笑って許してくださるだろう。

 夜空にかかる雲が晴れたときには月が美しく輝くように、人間も心の迷いを離れれば本来の輝きを取り戻す。「眠れる仏」であるわたしたちが、ブッダすなわち「目覚めた人」になる術を説くのが、仏教である。

 とはいえ、わたしたちの迷いの雲はなかなか晴れないから、歴史的に実在したブッダは釈迦ひとりだけである。経典には阿弥陀仏や薬師仏をはじめ無数のブッダが登場するが、これは後の時代の人々が、涅槃に入ってから何百年待っても復活しない釈迦をいとしく想うあまり創作した物語である。

 釈迦は生まれてすぐに7歩進み、高らかに「天上天下唯我独尊」と言い放ったという伝説があるが、これも後世の創作である。初期の経典を読むと、釈迦はイエスのように奇跡を起こして病人を癒したり人々を導いたりすることはなく、心が迷う原因をドライな言葉で簡潔に説いていた。

 「毒矢に射られた人は、矢を放った人をつきとめるよりも、とにかく矢を抜かねばならない」という『中阿含経』の「毒矢のたとえ」もその一つだ。この説法の中で、毒矢に射られた人というのは、つまり迷いながら生きているわたしたちに他ならない。経典では心の「毒」を抜く医療を提供するのは仏教であるが、正しく治療できるのならその手段は他の宗教であってもかまわないだろう。むしろ、この地球上で同じ時代を生きている限り、人種や宗教の垣根を越えて現代が抱える病巣に向き合っていかなければならない。

 そのためには、幅広い知見が必要になることは言うまでもない。中国唐代(7世紀)の僧義浄がインドのナーランダ僧院で生活したときには、仏教学(内明)のみならず、医学(医方明)、語学(声明)、討論術(因明)、美術工芸(工巧明)の合計5分野の学問(五明処)が学ばれていたという。時代時代の文化から多くを取り入れて、釈迦が説いたシンプルな教えを語り継いでいく。それがインド以来の仏教の良き伝統だと思う。

 わたしが住職を務める龍岸寺では、専属メイドの「肉たん」がナビゲーターとなって宗教間対話をする冥土喫茶「ぴゅあらんど」を、昨年から定期的に開催してきた。次号本欄に執筆予定の日本人ムスリム・ナセル永野氏にもゲストとしてお越しいただいた。他にも、フリーペーパーを発行したり、浄土系アイドル=写真下=のプロデュースに関わったりと、従来の僧侶のイメージを崩すような試みにも携わってきた。

 教団の中から冷ややかな視線を感じるときもある。しかし、わたしは「毒矢のたとえ」に基づき、批判した相手を気にする時間があるぐらいなら、現代の苦しみを見つめ、その苦しみを解決する補助線を、仏教の伝統の中から指し示していきたい。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
 いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽。

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