【伝道宣隊キョウカイジャー+α】 聖書はともだち、こわくない! キョウカイホワイト 2017年8月1日 

 雑誌や新聞が廃刊になる前触れをご存じですかな? ①発行間隔が延びる、②判型が小さくなる、③内容が(さらに)つまらなくなる。これらがそろえば、まあ余命いくばくもありません。キリスト新聞のリニューアルは前の二つを満たしますが、最後の一つはどうでしょう。パウロじゃありませんが、「死にかかっているようで、このように生きており」(コリントの信徒への手紙二6・9)ってな具合いにしぶとく生き延びたいものです。ごひいきのほどを……。

 教会の人たちと話をするとき、小生はこんな具合にちょくちょく聖書のことばを引っぱってきます。最初はちょっとけげんそうな顔をしていた方も、最近は慣れたのか笑って聞いてくれます。もとの聖書のことばを知らない方には、「それ、どこに書いてありますか?」と聞かれたこともあります。聖書箇所とことばの背景を手短に伝えると、「聖書って案外おもしろいこと書いてあるんですね!」と感謝されました。そう、聖書は読んでみると案外おもしろいものです。

 先日も礼拝後のお昼を食べながらこんな調子で話していたら、「白鳥君、キミは聖書のことばをずいぶん軽々しく用いるんだね」とイヤミが飛んできました。ま、たまに言われますが、今回は同席者が「えーっ、剛くんがおもしろい話してくれているのに、そんなこと言わないでくださいよぉ!」とすぐに応えてくれたため、イヤミ氏は苦笑いして立ち去っていきました。

 イヤミ氏の言うとおりです。小生は意図的に聖書のことばをかる~く使っています。それが良いことか悪いことかは分かりません。でも、聖書のことばは重々しいもので、かる~く使ってはいけないと誰が決めたのでしょう。聖書のことばを大切にすることは、日常生活でかる~く使うことと両立できるはずです。

 常々思っているのですが、日本のキリスト者は聖書のことばを「正しさ」で縛りつけていやしないでしょうか。「正しく」翻訳された聖書を「正しく」読んで「正しく」解釈し、「正しい」信仰へと至る。これこそキリスト者のあるべき姿!……なのかもしれませんが、一歩間違えれば自分の信仰を正当化する道具として聖書を使っているだけになりかねません。

 そこまで「正しさ」に縛られなくてもいいんじゃないかなあ。聖書は長い時間をかけ、多様な人々によって紡がれてきた書物です。物語があり、詩があり、性に暴力、ついでに愛もあります。聖書ほど多様な読みを許容する書物はありません。ならば、聖書との付き合い方はもっと多様で、気楽なものでいいのではないでしょうか。納得がいかなければツッコミを入れ、おもしろい言い回しがあればニヤリと笑う。痛い所を突くことばに出会って反省する。そうやって聖書のことばと親しく付き合ってこそ、聖書を大切にできます。かる~い冗談の一つも言えないような相手とは、小生は深い付き合いはできそうにありません。

 ポルトガルから来て50年を迎えるという老神父と話をしたことがあります。求められるまま愛称で呼び、冗談を言いながら話していたら、突然彼は泣き始めました。「カトリックの信徒はワタシを神父様、神父様と呼んで大事にしているように見えるかもしれない。でも、ホントはそうやって壁を作っているんだ。ワタシはみんなの友だちになりたくてポルトガルからやって来たのに!」

 「あなたがたはわたしの友である」とイエスは言いました(ヨハネ15・14)。ならば、友らしい付き合い方を神とも聖書ともしたいものです。老神父のようなさびしさを感じさせないように。

キョウカイホワイト
 白鳥 剛(しらとり・ごう) 通勤電車内での読書を愛するウンチク系ものしり博士。キョウカイジャー唯一の一般信徒。妻との生活を守るため、職場の理不尽に耐える姿はまさに社畜。武器:理屈/必殺技:おだやかな論破/弱点:ピーマン

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